ベニー・"ザ・ジェット"・ユキーデ vs プライユット・シーソンポップ いにしへの観戦記(東京都大田区田園コロシアム)他

僕がキックボクシング史上最優秀と思っている選手。
単に強さやテクニックだけなら今の選手のほうが優秀ですが。
試合後のバク宙は武尊よりはるか昔にやっていました。
コーナーポスト上からではありませんが。

彼はアントニオ猪木の一連の格闘技戦で行われた対ザ・モンスターマン・エヴェレット・エディ戦の前座で日本デビューしました。

その時対戦した鈴木勝幸選手はライト級2位の選手だったと記憶しています。今から半世紀近く前の記憶ですから定かではありませんが。下の動画ではリング下に本来の対戦候補だった藤原敏男の顔も見えます。ユキーデの壮絶6RKO勝利。


1977年8月2日 対鈴木勝幸 6R 1:15 KO 『格闘技世界一決定戦』

当時のライト級王者が藤原敏男で1位が玉城良光だったと記憶しています。その後黒崎健時の目白ジム四天王の一人の岡尾国光、添野道場の内藤武をKOで下した。次にライト級4位だった大貫忍との対戦では派手に投げられた大貫が意識を失い反則負け、のち無効試合になりました。



1977年11月14日 対岡尾国光 4R 1:31 KO 全日本キックボクシング協会『格闘技大戦争』

当時気付きませんでしたが、岡尾国光は動画で見るとユキーデよりかなり大きく見える。岡尾は黒崎健時の目白ジム四天王でこの動画を見てもかなり高い実力を持っているのが分かります。本来ユキーデの日本デビュー試合は鈴木勝幸ではなく、藤原敏男や岡尾が対戦する予定でしたが、体重等の理由で急遽鈴木に変更になったらしい。元フェザー級の王者でしたが、この時はどう見ても体が大きい。そのせいかユキーデは早い回にパンチでダウンを貰っています。しかし4Rユキーデの猛攻で岡尾から見事にKOを奪って勝利(公式記録では4Rですが、なぜかもっと長い回までやったように記憶していました)。この勝ちっぷりには黒崎健時も危機感を抱いたでしょう。そして結局WKAルールで藤原敏男とやらせませんでした。藤原敏男もYouTubeでおかしな言い訳をしていましたね。あのルールではリスクが高いと判断したのは賢明だったと思います。


1978年4月10日 対内藤武士 1R 1:16 KO 飛び後ろ蹴り ユキーデの対戦相手はこの内藤選手以外は全て全日本ランク上位か王者クラスばかりでした。ルールは新生K-1ルールのようにヒジ・組んでの連続攻撃は無し。1ラウンド2分で12ラウンドまで戦う事もありました。慣れない日本選手はペース配分の点で不利でした。


1978年4月29日 対大貫忍 一本背負い投げでTKO後無効試合裁定に変更 マーシャルアーツを標榜するだけあってユキーデは投げも得意だったようです。海外の試合でも投げを見せていました。大貫選手のような実力者があのようにのびてしまうのは意外でした。後に海外で再戦しますがユキーデは見事にKO勝利を飾っています。

もう相手は王者の藤原敏男しかいませんでしたが、藤原敏男陣営はユキーデ側からのヒジ無しルールを承服せず、試合は実現しませんでした。WKAルールはローキックもヒジも顔面ヒザも無しでしたが、ユキーデはヒジ禁止の日本でのルールで見事に勝ち進んでいました。藤原敏男側は最近のYouTubeでユキーデ側がビビっていたような事を言っていましたが、当時の印象では全く逆で、大幅にルールに譲歩していたのはユキーデ側で、ヒジ有りを主張して譲らなかった藤原敏男側がむしろビビっていたように感じます。何よりユキーデは敵地で連戦連勝していたのですから。

そして結局、ルンピニーJr.ウェルター級5位の現役ランカーだったプライユット・シーソンポップとの対戦を日本で組まれてしまう。体重差がたしか5Kgほどあったと記憶しています。当時僕はまだ子供でしたが、チケットを買って小田急線の世田谷から下北沢渋谷経由で田園調布の隣駅の東急東横線多摩川園にあった田園コロシアムで屋外ナイター観戦しました。大田区は直線距離なら近いのですが、東横線方面は滅多に行かない地域でした。ポピュラーなところでは巨人軍の多摩川グラウンドの近く。メイン試合前には全米プロ空手ジュニアライト級王者レフギオ・フローレスが藤原敏男のローキック地獄にやられ放題でKOされていました。藤原の相手は階級下でローキックの防御が全くできない選手で可哀想なくらいでした。どう見ても梶原一騎の作為が感じられた映画用の興行でした。

それに引き換えユキーデは今なら考えられない2階級上のムエタイルンピニー現役ランカーとマッチメイクされ、WKAルールではないヒジ、首相撲、ローキック有りのムエタイルールの地獄で何もできずに終了しました。やはり体重5Kgの差とルール違いではユキーデと言えどもいかんともし難かったようでした。公開処刑のように首相撲からのヒザをもろに受け、ローを打たれまくっていました。当時は藤原敏男のファンでしたが、よくぞ最終ラウンドまで戦い抜いたと敵ながらあっぱれと感動しました。ちょうど先日行われた武尊対スーパーレックを彷彿とさせるような試合でした。あれよりさらに酷いやられようでした。

動画ではユキーデも階級を上げたと言っていますが、体格の差は一目瞭然。何も出来ずに試合は終わったのです。この動画でプライユットはヒジも首相撲も顔面ヒザもローキックも全て出しているのが分かります。


1978年8月2日 対プライユーット・シーソンポップ 6R判定負け 田園コロシアム

そしてベニー・ユキーデは藤原敏男との対戦叶わず日本を去りました。ユキーデと戦ったプライユットはその後藤原敏男と対戦しました。これに藤原が勝てばユキーデを藤原が上回っているとばかりに用意されたマッチメイク。リングアナも「ベニー・ユキーデを破った男」とアナウンスしています。プロモーターの願い叶い、階級下にもかかわらず藤原の動きも良く、ほぼ互角の勝負で判定勝利。しかし今これを見て思うのは、僕がユキーデ戦で見たプライユットとこの時のプライユットとは絞り方が違うように見えます。フレームは明らかに藤原より大きいのですが、かなり絞った体のように見える。ユキーデ戦ではもっとどうにもならないほどの体格差を感じました。藤原はムエタイ王者になる選手ですからルール的には何の問題もありませんが、ユキーデにムエタイルールは辛いものだったでしょう。

それからこの動画を見て思うのはプライユットがヒジを出していない事です。ムエタイは完全にガチの時はヒジの出し合いになるので、すぐにガチ度が分かる。全て見ていないので何とも言えないのですが、ユキーデ戦ではプライユットはヒジを出しています。

結局これを今見ても藤原とユキーデのどちらが強いのかは分かりません。言えるのは2分12ラウンドヒジ・首相撲無しの全米プロ空手ルールでやればユキーデが有利、ヒジ、首相撲有りの5R全日本キックルールでやれば藤原が有利だろうと言うこと。それで間違い無いと思います。両者とも間違いなくかなりの実力者です。黒崎が言うほどユキーデが弱くなかったのは四天王の岡尾があの倒され方をしているのを見れば分かろうと言うものです。


1979年2月6日 藤原敏男 vs プライユット 5R判定藤原勝利


1979年10月1日 対玉城良光 9R終了 判定2-0 全日本キックボクシング協会 後半部分の動画が発見できませんが、半分まで見た所では互角の戦いをしています。ユキーデのルールなのでこれまでの試合では、後半はユキーデ有利になる事が多い。玉城は藤原敏男と王者決定戦で敗れてライト級1位にランクされていた選手。ユキーデ側のルールでやったのだから玉城の強さが分かります。藤原とプライユットの試合同様、この試合の記憶も有りません。プライユットとユキーデの酷い試合を観て、急速に興味を失ったのかもしれません。


1980年1月26日 対大貫忍との再戦 7R KO 左ボディショット


1982年6月21日 対越川豊 6R 1:48 TKO カナダバンクーバー スーパーライト級タイトルマッチ11回戦


1983年1月8日 対長江国政 4R 0:38 KO 今年お亡くなりになられましたが、若い時はなかなかのハンサムボーイでした。合掌。


1983年9月12日 対アイアン藤本 6R 1:27 TKO  後楽園ホール


1989年4月24日 対飛鳥信也 2分5R終了 ドロー 新日本プロレス『’89格闘衛星☆闘強導夢』この試合の事も知りませんでした。もう盛りは過ぎていたようです。


1993年12月4日 対田上敬久 2分12R終了 判定 引退試合
この引退試合はスプリットホームタウンデシジョンでユキーデ判定勝利となりましたが、本当はダウンを奪った田上の勝ちでしょう。長い間お疲れ様でした。


オマケ
1977年3月1日 対ナロンノイ・キヤットバンディッド  ユキーデは日本デビューの5ヶ月前の試合で、最終ラウンド終了間際に派手にハイキックでダウンを奪われました。しかし判定結果は群衆の暴動によりノーコンテストと不可解なもの。日本ではほとんどがWKAルールとは言え、ガチの戦いを見せてくれました。

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