見出し画像

ネコババは泥棒のはじまり

かなり昔の話ではあるが、今でもモヤモヤしている出来事がある。

ある日、電車に乗っているとき、隣の席に座った人が「財布が落ちていて、その中の現金を抜いた」という話をしていた。ぼくはその話を聞いて、即座に「それは犯罪じゃないの?」と思っただけでなく、何かしらの違和感があった。

あらためて調べてみると、その行為は場合によっては遺失物横領罪にあたる可能性があることがわかった。だが、今になって振り返ると、その時のモヤモヤの原因は単に法律的な解釈に対する違和感だけではなかったように思う。その違和感の本質は、罪悪感の境界線が人によって異なること、そしてその違いがもたらす怖さと気持ち悪さにあったのだと思う。

ネコババをしたその人は、おそらく自分が悪いことをしている意識はあまりなかったのだろう。だからこそ平然とその話をしていたのではないか。その感覚の違いについてもう少し考えてみたいと思う。

例えば、以下のようなシチュエーションを罪悪感の順に並べてみる(罪悪感:①小→⑤大)。

①特急の窓側の席に座ったとき、隣の通路側の空席に1,000円札が落ちていた。だから拾ってネコババした。

②特急の窓側の席に座ったとき、隣の通路側の空席に1,000円札の入った財布が落ちていた。だから財布から1,000円札を抜き取ってネコババした。

③特急の窓側の席に座っていたとき、隣の通路側の席にいた人が降りるときにポケットから1,000円札を落とした。持ち主は気づかなかった。だからネコババした。

④特急の窓側の席に座っていたとき、隣の通路側の席にいた人が降りるときにポケットから1,000円札の入った財布を落とした。持ち主は気づかなかった。だから財布から1,000円札を抜き取ってネコババした。

⑤特急の窓側の席に座っていたとき、隣の通路側の席にいた人がトイレに立った。不用心にも1,000円札の入った財布を席に置いてトイレに向かった。だから財布から1,000円札を抜き取ってネコババした。

どうだろう。少なくとも①の時点で罪悪感を感じる人も多いだろうが、シチュエーションが進むにつれて罪悪感は増していくように思う。①~④まではネコババっぽいが、⑤に至ってはもはや置き引きである。

行為自体は持ち主不在のときに財布から1,000円札を抜き取るという点で、②と⑤は同じだ。しかし、隣の席の人の存在が具体的に認識できているかどうかという差があるのではないかと思う。

怖いのは、ネコババと横領/窃盗の差は感覚的にはその程度の認識の差でしかないということだ。大昔にネコババした話をしていた人と僕とでは感覚の違いがあった。僕は①ですら罪悪感を覚えたが、彼は②くらいまでは大したことではないと感じていたのだろう。

さらに考えてみると、隣の席の人がトイレに立ったのではなく、家族が旅行に行くために家を空けた場合はどうだろうか。根本的な部分では、トイレの離席も家を空けることも、持ち主の不在という点で同じである。持ち主が不在なら取ってもよいという感覚がエスカレートしてしまうのではないだろうか。

このように、善悪の境界は曖昧でかつ個人差がある。そして、人間は弱く、魔が差すこともある。嘘つきは泥棒の始まりということわざは、そんな感覚の揺れを端的に表している。

小さな悪行を繰り返していると、次第に「やっていいこと」と「やってはいけないこと」の境界が揺らぎ、そして「やってはいけないこと」が少なくなっていく。

善悪の基準や感覚、その揺らぎに対して、僕たちは常にその境界を意識していかなければならない。流れに身を任せることなく、その意識を持続させることが重要である。さもなければ、いつしか悪い方向に進んでしまうのだろう。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?