障がい児なの?障害児なの?その違いが生み出す国際教育政策の違い

こんにちは、違いが分かる男、理事の畠山です。ただし、残念な事にコーヒーの味の違いはよく分かりません。昨日2泊3日の駒門駐屯地出張から帰ってきたのですが、自衛隊の方々から大変刺激を受けたので、朝一でジムに行ってスクワットをしていた所、理事の青木(以下めんどくさいので青哲さん)からメッセージが入りました:「今日(12月3日)は国際障害者デーです」。

そもそも青哲さんからそのメッセージが入ったのは、私と青哲さんは神戸大学大学院国際協力研究科(以下なんとなくG6)のゼミの同期ですが、他ゼミ(アフリカ研究)ながらG6の同級生に関谷君(以下フィーリング的にせっきー)がいました。大学院の頃からアフリカに情熱を燃やしていたせっきー(@uriouriourio)が、モザンビークで障害を持った子供の学習支援をしているので、あれこれ話をしていたという経緯に拠ります。そのうちせっきーと途上国の障害児教育について何かしらコラボしてG6パワーを見せつけに行くのでお楽しみに(ちなみに、モザンビークは私がかつて仕事をしていたマラウイとジンバブエに隣接しているので、モザンビークはポル語圏ではあるもののご近所さんでもあります)。

というわけで、国際障害者デーなので、国際教育政策と障害児について話をしてみようと思います。
(これまでにも障害児に関して、BLM運動の背後にいる障害を持つ子供達障害は社会の側にあるとはどういう事?障害児教育の比較教育学障害児をクラスメイトに持つと学びが阻害されるのか?-障害児教育の教育経済学、という記事を書いているので、もしお時間があればどうぞ)

研究者にすらスルーされる途上国の障害児達

どの先生だったか完全に忘れてしまいましたが、私が初めて国際教育協力に触れたのは、大学三年生の時に受講した国際比較教育学の授業です(注:それを仕事にしようと思ったのは、大学四年生の時に早稲田の黒田先生・東大の北村先生の授業を受講してからですね)。まだその頃は、国際教育協力のフォーカスは、如何にしてUniversal Primary Completion (UPC)、即ち全ての子供達が小学校を卒業できる状況を実現できるかどうかでした。

そこがフォーカスされた理由は、2022年の今からすると信じられないかもしれませんが、2000年頃にはまだまだ貧しさが理由で小学校に行けない子供達が沢山いたからです。このため、SDGsの前任者であるMDGs(Millennium Development Goals…いつもミレニアムってn重ねるんだっけと忘れる…)は、たった8つしかない目標の一つに、UPCを掲げました。

確かに貧しさで小学校へ行けない子供達は殆どいなくなったものの、依然としてUPCは実現されていません。子供達を小学校に行けなくさせる足枷は主に3つあり、1つは紛争、もう1つは遊牧民(学校という建物が地面に固定されているのに、子供達の住居は動き回るため)、そしてもう1つが障害です。

「そんな…障害が原因で小学校に行けないだなんて、研究者達はこれについて沢山研究をして、UPCが達成されるように頑張ったに違いない!」と思われるかもしれません、少なくとも私はそう思いました。しかし、残念ながらそうではありませんでした。

ミシガン州立大学のEducation Policyで博士課程の学生だったAlisha Brownさん(現在は南フロリダ大学のAssistant Professor)は、国際比較教育研究がどれだけ障害児にフォーカスしているかレビューして論文にしました。具体的には、MDGsが始まった2000年からBrownさんの論文が投稿された2013年までの間に、国際比較教育の主要学術誌(Comparative Education Review、Comparative Education、Compare: A Journal of Comparative Education、the International Journal of Educational Developmentの4誌)にどれだけ障害を扱ったものが掲載されたのかが調べられました。余談になりますが、systematic literature reviewをする上でお手本のような論文なので、大学院進学を考えてしまっている学部生さんには目を通して欲しいなと思います。

Brownさんの件の論文によると、その13年間に国際比較教育の主要学術誌に掲載された論文のうち、障害を扱っていたのは、なんと…ダラララララララララララ、ダン!僅か1%!大雑把な数字で言うと、大体1割ぐらいの人は何かしらの障害を持っていたりするのに、障害と教育に関する論文は何と僅か1%という。

国際比較教育の研究者が全然障害について注意を払っていない一つの理由はデータで、これについては後述しますが、もう一つの理由はポストです。ミシガン州立大学の教育政策のBrownさんって畠山の学科レベルの先輩じゃないか!と気が付いた人はよほどの私のファンだと思いますが、茶番はさておき研究分野的にも完全に私の先輩で、私の指導教員はBrownさんの博論審査委員会のメンバーだったので、そのつてで就活についてzoomで相談させてもらいました。

しかし、卒業が2015年とかなりアカポス就活の状況が良い時期だったにもかかわらずBrownさんも就活が相当厳しかったそうです。というのも、途上国の障害児を研究してもポストが無いそうです(私も米国内だとミネソタ大学ぐらいしか知らない)。実際にBrownさんも、現在南フロリダ大学で教えていますが、Social Foundationという教員養成の基礎分野(日本で言えば、教員免許で必要な「教育の理念並びに教育に関する歴史及び思想」相当かな)を担当していて、国際比較教育を教えているわけではありません。

なるほどなるほど、途上国の障害児教育で博論を書いてもポストが無いのか。…それ早く言ってくれよー!!!まあ、いいんですよ、私はあなたは誰よりも強い人だから弱い人達を守ってあげて欲しいと言われてこの仕事をしているだけなので、途上国の障害児に行きつくのは当然だし、まあ仕事が無い=そんな強い人間という訳でもなかったという事なので、それを言われる以前の夢だった格闘家を目指そうと思います。皆さんも見てみたいでしょ、パワーリフティングに挑戦しているムキムキおっさんがプロレスラーになって繰り出す圧倒的な逆水平チョップ。ナゴヤドームの5階席まで吹っ飛ばしてやるぜ!

整備され始めた途上国での障害児に関するデータ

それはさておき、国際比較教育の研究者が途上国の障害児を研究しなかったもう一つの理由はデータです。障害児の定義を考えてみれば障害児のデータの難しさが容易に理解できるはずです。例えば、障害児といった時に、含まれる障害は何ですか?全てですか?所謂目に見えやすいものだけですか(視覚・聴覚など)?知的障害は目には見えませんが含めますか、含めるならどの程度からですか?精神疾患は障害ですか、含めるなら以下同文。さらに、途上国の農村部に障害を診断できるだけの医療設備は無いですがどうやって測定するんですか?

怒涛の様に畳みかけましたが、要するに、国際的なイニシアティブが無ければ、国際比較可能な障害児のデータなんて出来るわけが無く、国際比較教育研究もやりようが無いのです(完全に無い訳ではないですが、前述のBrown先生の研究でも、国際比較教育学の中で障害児に焦点を当てた僅か1%の論文は、障害の社会的な解釈や、国際と国内の障害児教育のアジェンダの不和、に主にフォーカスを当てている事が分かっていて、それ即ち障害児の不就学や学びといった側面にはフォーカスできていないという事になります)。

この状況が変わり始めたのは2001年です。この年に、国連の経済社会理事会の統計委員会が障害と統計の問題の深刻さに気付き、これに対処するためにWashington Group on Disability Statisticsを設立しました。そして、その8年後の2009年に大人と同じ診断基準ではマズいという事で、障害児に関するサブグループが設立されました。2011年にはユニセフがこのサブグループに加入します。そして、2016年にようやく子供の障害に関する統計について合意が為されました。

それは、
①3・4歳児と5-17歳児で質問を分け
②障害の程度を主に4段階で測定して、軽度の障害は「障害」と見なさず、中度と重度のみを障害と見なし
③医者による診断ではなく、保護者のジャッジメントに頼り
④3・4歳児については視覚・聴覚・歩行・コミュニケーション・微細運動機能・学習・遊び・行動障害の8項目
⑤5-17歳児については視覚・聴覚・歩行・セルフケア・コミュニケーション・記憶力・学習・集中・変容受容・行動障害・友人関係・不安・抑うつの13項目をカバーする、
という5つの特徴を有しています。

そして、ユニセフは2017年から始めた第六ラウンドのMultiple Indicators Cluster Survey: MICSに、この合意事項を導入し、途上国でも包括的かつ国際比較可能な障害児に関するデータが取られるようになりました。私の博士論文もこれを使ったものです。しかし、まだ不完全な所もあり、今後も一層データの深化が進むはずです。そして、それと共に途上国の障害児達が学校へ行き、ちゃんと学べるようにするにはどのような国際教育政策が必要なのかを検討した研究ももっともっと出てくる…はずです(希望的観測)。

障がい児なの?障害児なの?

何度も何度も何度も何度も話しているので、流石にくどくどしくなってきましたが、未だに障害なのか障がいなのかの話を聞かれる事があるので、復習しておきたいと思います。ふくしゅうと書いた時の第一変換候補は復讐という物騒なものでしたが、障害なのか障がいなのか話を忘れてしまう人にはアルゼンチンバックブリーカーをお見舞いして復讐したいなと本心では思っていますが、特に復讐はしないので安心してこの章で復習してください。

まず、害という漢字は良い感じがしないし、そんなのを人に使うのは良くないよというスタンスがあり得ると思います。SNSで観測している限りでは、障がいと書く人がそうする理由はほぼそれで間違いない感じです。そしてこのような障がいに対するスタンスを障がいの医療モデルないしは個人モデルと言います。この障がいの医療モデルのベースになっているのは、WHOが1980年に出版したInternational Classification of Impairments, Disabilities and Handicapsです。興味がある人はググって読んでみて下さい。

しかし、障がいの医療モデルを念頭に置いている人は、障がい者の社会参加を困難にしているのは、障害(impairment)が障がい者自身にあると心のどこかで思っているから、障がい者と書いているのではないでしょうか?障がい者の社会参加を困難にしている障害は、本当に障がい者自身が持つ障害でしょうか?

この障がいの医療モデルの対極に存在しているのが、障害の社会モデルです。これは様々な起源があるのですが、最も影響力の強いもの1つに、自身が障害者でもあるイギリス人の研究者Oliverを挙げることができます。そして、彼自身が2013年にThe social model of disability: Thirty years onという論文を書いているように、Oliverの1983年の著書であるSocial Work with Disabled PeopleがOliver由来の障害の社会モデルの始祖となります。

国連は1981年を国際障害(がい)者年としますが、OliverはShearerという研究者と共にこれを批判しました。なぜなら、国連が掲げたそれは、障がい者を支援して社会参加ができるようにするというもので、社会を変えて障害者も社会参加できるようにする、というものでは無かったからです。より簡単に言えば、障害者の社会参加を阻害しているのは、障害者が持つ障害(impairment)ではなく、社会の中にある障害というわけです。

障害の社会モデルをベースに考えた場合、障害者というのは、障害を負っている人ではなく、社会に存在する障害に直面する人という事になるので、障がいと書くとなんだかよく分からない事になるので、障害者と書くのがより適切になる感じです。

障害は社会の側にあると言われるとよく分からないと思うので、これも何度も何度も使った具体例を使ってみようと思います。メガネをかけないとほぼ物が見えない人がいたとします。日本だったら多くの人が眼鏡を購入できるので、そういった人達でも眼鏡をかけて社会参加ができますし、実際にそういった人達は多くいます。では、アフリカのマラウイやジンバブエやモザンビークの農村部ではどうでしょうか(勿論、ネパールでも良いですよ!)?そんな所ではメガネが売っていないし、そもそも眼鏡を買えるだけの現金も無かったりするので、日本では社会参加できていたような人たちも、そこでは社会参加が出来なくなるはずです。

障害となるのは物だけではありません。人々の心もです。例えば、障害者は非障害者のようには働けないから社会福祉のお世話になるしかないと人々が思っていたら、職場もそのような所ばかりになってしまうでしょう。しかし、日本でも最近、注文に時間がかかるカフェや、聴覚障害者が主力となっているスタバが国立に出来たりしていますが、これらは店内に様々な合理的配慮がなされているのはそうなのですが、障害者は働けないという人々の意識が障害として存在していたら、これは実現しなかったであろうというのも重要なポイントです。

というありきたりの説明に飽きてきたので、別の事例を考えてみました。スパルタ教育の語源となった古代ギリシャのスパルタは、重装歩兵によるファランクスを得意戦術としていました。この密集陣形は体力の消耗が激しい上に機動力に劣るのですが、スパルタはスパルタ教育によって体力と機動力の問題を解決しました。このため、スパルタでは男性はムキムキマッチョ以外は市民とみなされていなかったので、もし軟弱な現代日本人がその社会にいたら障害者(または奴隷)とみなされていたでしょう。男はマッチョでなければ市民では無いという社会通念が障害であるというわけです。同様に、応仁の乱で畠山氏という頭の悪そうな一族の没落が起きないという世界線があれば、現代日本でも自動ドアは電気を使ってサステナブルじゃないし、鍛えるために全てのドアは重さを100キロ以上にする事という政策が導入されていたかもしれません。そうなると、私にとっては全く障害ではありませんが、軟弱な現代日本人の多くはドアを開けて家を出るのにも介助が必要となり、介助が無ければ家を出て社会参加することもできない障害者に途端になってしまいます。………うむ?

ちなみに、米国の大学は、ハーバードならクリムゾン、コロンビアならライオンズと呼称があるのですが、私が卒業したミシガン州立大学のそれは…スパルタン。

障がい児と障害児の違いがもたらす国際教育政策の違い

意図的に障がい児と書く人はきっと、障害があるのは社会というけど、重いないしは複合的なimpairmentによる障がいのインパクトは無視できないでしょうと主張するのかなと思います。逆に、意図的に障害児と書く人はきっと、メガネでも補聴器でも人々の心でも、我々は障害を克服してきたのだから、あらゆる障害は克服できると主張するのかなと思います。この障がい児と障害児の違いは、国際教育政策的に二つの大きな示唆を持ちます。

Special education、integrated education、inclusive education

一つ目はspecial education、integrated education、inclusive educationの違いです。

Special educationは、用語の用法が国際協力とアメリカで全然違うので注意が必要ですが、国際協力でのそれを大雑把に言えば、障がい児と非障がい児が別々の教室で学び、障がい児は障がい児学級や学校で教育上特別な支援を受ける事になります。

Integrated educationは、障がい児と非障がい児が同じ教室で学ぶのですが、合理的な配慮が特に為されるわけでもなく、通常学級にただ障がい児が入れられるというものです。一見すると障がい児と非障がい児が同じ教室で学ぶので良いような感じもしますが、これは結局社会が変わる事無く障がい者に支援が為されて障がい者の社会参加が実現する、の学校版なので障害の社会モデルからすると褒められたものではありません。何か国連から日本が勧告を受けていましたが、私の理解だと日本はintegrated educationが強過ぎるみたいな感じだったんじゃないかな。

Inclusive educationは、合理的な配慮がなされた上で障害児と非障害児が同じ教室で学ぶものです。これは、障害児が持つ教育上特別なニーズが、教室・学校・教育システムが合理的な配慮が出来るように変化することで満たされるというもので、障害の社会モデルが想定する教育の在り方です。

なので、障がい児という立場に立てば推進されるべきはspecial education又はintegrated educationという事になりますが、障害児という立場に立てば推進されるべきはinclusive educationという事になります。

介入すべきは社会的なものか、impairment的なものか

二つ目の違いは教育計画に現れてくるはずです。よほどポンコツな教育プランナーでなければ、現在の国際教育協力において障害児を計画から外すという事はしないはずです。しかし、その次のステップに違いが現れてくるはずです。

障がい児という立場に立てば、介入すべきは障がい児そのものになってきます。なので、特別支援学校の整備やそこで働く教員の研修が主なアクションポイントとなってきますし、障がい児の中でもターゲットとなるのは重度や複合障がいを持つ子供達になってくるだろうなということが予想されます。

これに対して、障害児という立場に立てば、介入すべきは障害児の社会参加(ここでは教育)を阻害している社会の中の障害となります。それは例えば、ユニセフっぽく言えばCommunication for Development (C4D)が主砲となってくるでしょうし、一般的な教員が合理的な配慮を出来るようになる為の研修も主なアクションポイントとなるはずです。また、障害児の中でもターゲットとなるのは、他のmarginalization factorを持ち社会から二重に阻害されているような子供達となりそうです。

両者の唯一の共通点になりそうなのは、バリアフリーな学校設備の導入になりそうです。

では、障害児/障がい児が学校へ行き(こっちは大したポイントではないかも)、ちゃんと学べるようになる(こっちは大事なポイント)為には、どういう組み合わせの国際教育政策が求められるのでしょうか?というのに博論で取り組んだわけですが、右上を見ると文字数が既に7600字を超えて…という無駄な事を書いている間にもどんどん数字が上がっていって長過ぎだろうと自分に呆れているので、まあまたそのうち機会があれば博論についてお話しようと思います(あ、そうこうしているうちに7700字になった)

特にまとめる事も無いけれども

この記事の始まりは、ジムでスクワットに励んでいる時に青哲さんから来た「本日(12月3日)は国際障害者デー」ですよというメッセージなので、この記事を読んで今日は国際障害者デーだったのかと思ってもらえれば、この記事の目的は達成した事になります。

そうやって〆るのも味気ないので、3点だけ。①サルタックとして現在障害児支援に乗り出せているわけではありませんが、この私がいる訳なので財政基盤さえあれば勿論障害と幼児教育の分野に乗り込んでいきます。なので、有料部分に何も記載が無い実質無料の記事ですが、購入してもらえると嬉しいなと思いますし、寄付や継続的な支援を頂けると猶の事ありがたいです。

②せっきー(@uriouriourio)が既にモザンビークで活動を始めていて、寄付を受け入れる財団の設立は来春らしいので、彼の活動を追っかけて財団が設立されたらご支援して頂ければ、G6の仲間として感謝します。

③「強さというのは、多くの人を従える事ではなく、弱い人にその力を差し出せる事だ」と諭されて国際協力の仕事をすることにしたので、既に3年前になりますが、このような言葉を発することができる同い年のフィンランドの首相は凄いなと思っています↓

「社会の強さは最富裕層の豊かさではなく、最も脆弱な立場にある人々の暮らしぶりによって測定できる。私たちが問わなければならないのは、社会の全ての人が尊厳ある人生を送れるチャンスに恵まれているか否かだ」(2020年の年頭の挨拶)

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