途上国において他者を信頼するとは?

『日本と文化が異なる国で働くには信頼関係の構築が大事、ましてや価値観や経済レベルが大きく異なる途上国においては。』途上国で働く人にとっては良く聞く言葉だと思います。一緒に酒を酌み交わせ、現地語を覚えて価値観を理解せよ、のような関係構築のための具体的手法に関する断片的な言説は多いものの、途上国における信頼の性質について体系的に知れる機会はなかったなとふと思いました。そこで今回は”信頼”という概念に注目して、日本人が途上国において他者を信頼するとはどういうことなのか、順を追って考えていきたいと思います。信頼について勉強をし始めたばかりなので、もしご意見、ご指摘、感想などありましたらどんなご意見でも結構ですので教えていただければ嬉しいです(山田まで→info@sarthakshiksha.org)。

1.なぜ途上国において信頼関係の構築が重要なのか?

私はネパール、ミャンマー、ケニアのNGOの現場でこれまで働いてきましたが、プロジェクトが人々との関係性の上に成り立つということを身をもって知りました。ルールがあっても機能してないことも多く、誰を知っているか、誰が理解を示してくれているか、が円滑なプロジェクトの遂行に役立ちました。ケニアのプロジェクトでは、1年目「おい、ムズング(=白人・外国人)、おまえらは何を俺たちにくれるんだ」と、ある学校の校長先生に言われ続け、学校でのプロジェクトが遅々として全然進みませんでした。何度も学校を訪れ、私たちの意図を伝え続けた結果、個人的な信頼関係を築きあげ、2年目に入り校長はようやく理解を示してくれました。「なんだ、そういうことか、それなら最初からそうと言ってくれよ」という言葉とともに、プロジェクトが動き始めました。またプロジェクト外でも、信頼関係の実利的な面がありました。ナイロビの役所関係では外国人とみるやいじめられることが多いのですが、私がある役所を訪れた際も案の定鼻から取り合ってくれず、行政官は手続きを前に進めるためにチャイ(=賄賂)をよこせとにおわせてきました。しかし、思いがけないことが起こります。居住地を聞かれたところ、なんと私が住んでいた場所は、彼女の出身地だったのです。彼女の出身地で教育援助をしていると伝えると、彼女の態度が一気に軟化、ものの5分で手続きを進めてくれました。働くレベル(現場・政策)や機関によって濃淡はあるものの、日本と異なり、規則でがちがちに縛られていないことが多く、意思決定やルールが属人的であるため、信頼関係がものを言います。

信頼関係は大事だという点は誰でも理解できると思いますが、相手への丸腰の信頼が良い信頼と言えるのでしょうか。途上国における他者への信頼について考える前に、まずは”信頼”概念を整理することで、信頼の核心に迫っていきたいと思います。

2.信頼概念の整理

信頼概念の整理が後々肝になってくるので、お付き合いいただければと思います。まず、ここで議論する信頼は相手の能力に対する期待ではなく、相手の意図に対する期待として、信頼を限定します。前者の相手の能力に対する期待の例としては、親知らずの矯正治療の全身麻酔の合意の際、歯医者さんの腕(=能力)を信頼することです。後者の相手の意図に対する期待の例は、妻が私にお使いをお願いする際に、渡したお金をネコババしないと信頼している場合です。後者の場合は、妻は私のネコババできない能力を信頼しているのではなく、私がネコババしないという意図を信頼しています。意図に関する信頼とはつまり、「相手に身を委ねたときに、利用されてひどい目にあわされてしまうのではないかという、相手が自分の利益のために搾取的な行動を取る意図をもっているかと思うかどうかに関する信頼(山岸俊男 (1998) 信頼の構造 こころと社会の信頼ゲーム p.37より)」です。

信頼研究で有名な山岸はこの相手の意図に対する期待をさらに【安心】と【信頼】に分けて整理をしています。【安心】とは相手の自己利益の評価に根差したもの、【信頼】相手の人格や相手が自分に対してもつ感情の評価に根差したものと分けています(山岸, 1998, p. 39)。いったいどういうことか、具体的な例から考えてみましょう。私が親友に現金100万円を預けても、私は彼がお金を盗まないと判断します。このとき、親友が私との関係性が崩壊するような行動はしないため、お金を盗まないだろうと判断するのは【安心】の例です。お金を盗めば、彼はお金という便益を得られますが、私という親友を失います。その損失の方がダメージが大きいからお金を取ることはないだろうと判断します。一方で、親友の誠実な性格など人間性の評価による相手の意図に対する期待は【信頼】です。さらに山岸は、【安心】は相手と自分の関係に社会的不確実性(=相手の意図についての情報が必要なのに不足している状態)が存在しないことをもとにしている(p. 14)とし、社会的不確実性を減らすことで、【安心】を担保してきたのが日本社会であると主張します。確かに言われてみれば日本は安心社会的な性格があります。他の国に比べると日本社会は同質的で閉鎖的で、その空間内では、人を騙すことは村八分のリスクがあります。世間の目があるから他者は自分の評判を下げる行為は取らないだろうと考えやすいです。買ったパソコンの品質に期待を持てるのは、粗悪なものを売った企業が、ばれたときに失う評判を考えると、そういった行動はしないだろうと意識的・無意識的に予想できるからです。こういった他者の目を使って相手と自分の間に存在する社会的不確実性を排除することで、安心を担保してきたのが、日本社会の特徴です。ここまで長々と信頼概念の整理を行ってきた目的の一つは、普段何気なく使っている”信頼”を【安心】と【信頼】に改めて分けることで、日本社会に特徴的な【安心】を強調したかったからです。

3.途上国において他者を信頼するとは

3.1.安心はほぼ通用しない

上で見てきたように、日本は他者の意図や行動に対して安心することができ、相手に騙されることはないだろうと予想できる社会的不確実性が低い社会であると論じてきました。途上国で働く、途上国で生活をするということは、社会的不確実性が比較的低い安心社会の日本から、社会的不確実性が高い途上国社会に飛び込むということを意味します。外国人であるから現地での人々に対して情報が少ないことに起因する社会的不確実性も存在していますが、現地人同士でも相手の意図が読めない社会的不確実性が高い環境で生活していることが多いと感じます。冒頭の行政官の怠慢のような例は、日本では表立って遭遇することはないと思います。なぜならそれをすると、省庁の規則や他者の目によって裁かれるため、行政官がそのような行動を取ることはないだろうと期待(=安心)できるからです。一方で、規則が機能しておらず、属人的な判断がされる場合は、行政官の搾取が起こりえます。このような事例は行政機関に限ったことではなく、同僚や部下であっても安心できない場合があります。人間関係や職を失うというデメリットを考えれば、出し抜いたり、領収書をちょろまかすのは合理性を欠いていますが、そういった事件が度々起こります。日本人の感覚からすると、長期的に見たら損をするのに、なぜ短期的な利益に目がくるむんだろうと思うことがありますが、損得勘定に基づく相手の意図への期待である安心に慣れ、その前提のもと行動を取っているとえらいしっぺ返しにあいます。さらに、安心ばかりを求め、リスクがない環境だけで生活をしようとすると、途上国の人々に対して疑心暗鬼になり、途上国の人たちに受け入れられなくなってしまいます。まずは、途上国社会が、安心社会である日本とは別のスタンダードで動いている社会であるという事実を理解する必要があります。

3.2.丸腰の信頼なのか?

社会的不確実性が高い社会では【安心】に頼るのが難しいとなると、適切な信頼関係とは、相手の人間性をもとにした期待としての【信頼】を高めることなのでしょうか。確かにどの国にも素晴らしい人格の人は存在し、信頼できるパートナーを見つけることが大事であるのは間違いありません。しかしながら、丸腰での全幅の信頼は危険です。心から信頼されていた人に裏切られるという出来事にもしばしば遭遇するからです。誠実で地域のために貢献したいと強く語っている同僚が、実は裏ではお金をくすねているなんて事例も良く聞きます。そんな行動を取るなんて、その人は最初から地域のために貢献しようなんてはなはだ思っていなかったんじゃないかと判断しがちです。しかし、話を聞いてみるとお金をくすねてもなおその人の誠実さや地域貢献への思いは変わらないのです。ただお葬式や子供の仕送りで急にお金が必要になるなどして、魔が差しただけなのです。日本人の感覚からすると、お金をくすねることで、職業を失い、かつ地域のプロジェクトが止まってしまう可能性がある行動は極めて非合理的に感じられます。小川(2019)は香港のタンザニア商人について、「人間はいつでも豹変しうる可能性を前提にしながら、そのつどの状況・文脈に限定的な信頼を構築している」と記述しています(小川(2019)チョンキンマンションのボスは知っているより)。この人間はいつでも豹変しうる可能性を秘めているという点を理解した上で、信頼関係を構築する必要があると思います。

3.3.相手を信頼することに賭ける

日本のように安心を感じることもできず、他者に対して全幅の信頼を置くこともできないとなると行きつく先は人々への猜疑心なのでしょうか。これでは途上国の人から信頼されることはありません。途上国における他者への信頼について調べる中で、【相手を信頼することに賭けてみる】という姿勢が重要だと知りました。小川(2019)は、タンザニア商人について「他者は簡単に信頼できないことを理解しても、それでも誰かを信じることに賭けてみることでしか商売を切り開けない。」と言っています。香港のタンザニア商人は利益の浮き沈みが激しく滞在ステータスもグレイであるなど非常に不安定な環境で商売をしています。人柄が良いと言われていた人が急に仲間を出し抜くことも起こります。さらに小川(2019)は「誰も信頼できないし、状況によっては誰でも信頼できるという観点に立って、個々のブローカーが置かれた状況を推し量り、ひとたび裏切られても状況が変われば何度でも信じてみることができるやり方のほうが、本人の努力いかんに関わらず不条理な世界を生き抜いていきやすいのではないか。」と続けます。丸腰の信頼ではなく、相手が置かれている状況に思いを巡らし、相手を信頼してみる。たとえ裏切られたとしてもそれで関係性を断ち切るのではなく、状況が変わればまた信頼してやろうという精神的な余裕とでもいうのでしょうか。

実は似た言葉を故中村哲医師も残されています。アフガニスタンでの活動を振り返って彼はこう言っています。「人を信ずるとはいくぶん博打に似ていて、裏切られたことも一再ではなかった。しかし、まごころのある者はどこにもいるもので、こちらが誠意を尽くす限り、応分の報いにも多く恵まれる。過去二十年間、裏切りも多かったが、命をかけて守られたこともあった。私たちのように主流から外れた者にとっては、人の信頼の絆だけが頼みであった。(中村(2007) 医者用水路を拓くーアフガンの大地から世界の虚構に挑むーp. 213)」相手を信じることに賭けてみる。それによって裏切られもする。でも、こちらから信頼することによってはじめて、相手が私を信頼し、相互の信頼関係を構築することができる、それによって助かることもたくさんある。そのような教訓を中村先生は教えてくれているように思います。

偉そうに書いてきた私ではありますが、途上国の草の根の現場で、信頼することに賭けるまでの信頼関係を構築することはできませんでした。信頼をしていた人に裏切られた事件があり、それから途上国の人たちを信頼しようとする努力を止めてしまいました。こちらが信頼する努力をしないから、やはり相手にも受け入れられなくなってしまいます。今思うと人々が置かれている社会や、その人が置かれている環境を想像する心の余裕がなかったと思います。この人であれば大丈夫という丸腰の信頼で相手と接してしまい、信頼することに賭けるという、リスクを引き受けた上で信頼する覚悟もなかったと思います。ただ、当時現場で悩んでいた私が上のように整理することはできなかったと思います。数年経ってやっと客観的に物事を見ることができるようになりました。感覚的な側面があり、実際に体験してみないと分かりづらいかもしれませんが、今後同じような体験をする人が気持ちを整理したり、起こりうる場面に準備することに少しでも示唆を与えることができればと思います。

4.まとめ

途上国における他者への信頼とは何か?というテーマで信頼の概念を整理することから初めて、途上国における他者への信頼の性質について議論してきました。まず、日本社会で無意識のうちに身についてしまっている安心は途上国では通用しないとお伝えしました。相手を信頼することに賭けてみる覚悟の大切さについてもお話しました。信じることは博打のようなものだという言葉を実践するには精神的余裕、覚悟が必要で、まさに人間力が試されます。自分はその人間力がなかったので、騙されても信じ続けるを実践されてきた中村哲さんのような方は本当に素晴らしい方です。日本は社会的不確実性が低い社会、途上国は高い社会と二項対立的に論じましたが、本当に日本社会は社会的不確実性が低いのかという点は議論が残る点です。世の中自体が今後どのような方向に進むか分からず、安心社会の神話が崩壊しつつあるとすれば、安心に安住しない、相手を信頼することに賭けてみるという態度は途上国に限った話ではなく、日本社会においても重要なスキルになってくるのだと思います。本記事は途上国における他者への信頼を議論してきましたが、どこの社会にも程度の差はあれど通ずる話だったのかもしれません。

信頼が重要ではあるものの、握るべきところは握っておかないと組織が持たないのも事実です。組織内の汚職などの予防策として、疑心暗鬼によるがちがちの規則でもなく、丸腰の信頼による無策でもなく、資金・意志決定などポイントを抑えた予防策が大事だと考えます。本記事では文字数の都合で具体的な対策について書くことはできませんが、また機会があれば書いてみたいと思います(NGOの汚職対応については過去の記事をご覧ください)。

最後に本記事では様々な途上国の国をひとくくりにして話してしまいましたが、途上国の中にも濃淡はあります。ケニアやインドはかなり上の議論が当てはまる一方で、ミャンマーやアジアはどちらかというと日本に近い社会なのかなと思ったりもします。今後文化的な側面にも注目して、各地域に特徴的な他者の信頼について考えていけたらなと思います。

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