障害は社会の側にあるとはどういう事?障害児教育の比較教育学

こんにちは、理事の畠山です。以前、「障害児をクラスメイトに持つと学びが阻害されるのか?-障害児教育の教育経済学」という記事を掲載しました。今日は障害児教育について比較教育学の分野から迫っていこうと思います。

障害は、人ではなく社会の側にある、というセリフを聞いた事はあるでしょうか?私が博論でやろうとしている障害と教育の分野では有名なセリフなのですが、要は障害を持った子供が、教育を受けるという子供の権利条約で保障された権利を行使できないのは、その子供に障害があることが原因ではなく、社会・教育システムが十分にインクルーシブではないことが原因で、社会・教育システムがその子供の教育機会を阻害してしまうからだ、ということです。

これが何を意味するのかというと、障害を持っているからといって、それが原因でmarginalize(疎外)されるかされないかは社会・教育システムに拠るし、さらに言えば、どのような障害児が疎外されてしまうかも社会・教育システムに拠るので、社会によってどのような障害児が疎外されてしまうのかが全然違うんだよ、ということです。

国際比較教育学が素晴らしいのは、このどのような社会でどのような障害者が疎外されてしまうのかを比較分析している所です。そして、この分野の論文を読むと、社会の特徴によって障害者が疎外されるかされないか、さらにどのようなタイプの障害者が疎外されてしまうのかがある程度理解できます。そこで今回は、障害は人ではなく社会の側にある、というセリフを理解するための議論をしていこうと思います。

ちなみにですが、インクルーシブ教育と障害児教育は、前者は障害児だけでなく言語マイノリティや性的マイノリティなど人々が持つ多様なニーズを包括することを射程に入れているのに対し、後者はそこではなく障害児だけに焦点が当たっているので、前者が後者を包含する関係にあると考えられますが、今回はピンポイントで障害児の議論をするので、インクルーシブ教育ではなく障害児教育という単語を使っていきます。また、特別支援教育(Special Needs Education)の方が私が意図している物に近いのですが、障害児にフォーカスしているという点を強調するために、あえてそちらではなく障害児教育という単語を用いていきます。

(サルタックとして、この夏に障害児教育の調査を実施するので、ご支援を頂けると幸いです)

1. 障害児教育のEBPM(エビデンスに基づいた政策形成)が進まない3つの理由

そもそもエビデンスに基づいた教育政策形成が全然進んでいないのに、障害児教育のそれがEBPMになるわけないじゃないか!、という至極真っ当なツッコミはさておき、一般的な教育政策と比べた時に、障害児教育政策が国際教育協力の文脈においてEBPMになりづらい理由が3つあります。この3つの理由のうちの一つが、障害は社会の側にあるなので、ついでに3つとも紹介しておこうと思います。

一つ目の理由は、障害児教育の「障害」の部分の定義がバラバラだったことに拠ります。これは、2008年に出版されたDeon Filmerの論文を読むとよく理解できます。特にこの論文の中で議論されていることを、近年国際的な家計調査でも採択されるようになったWashington Group on Disability Statisticsが推奨している事と比較すると、なぜ障害の定義がバラッバラだとEBPMを進める妨げになるのか理解しやすいので、まずそれを議論しようと思います。

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