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「フランス映画の現在をめぐって」〈映画批評月間 名古屋2024スペシャル・エディション〉

劇場未公開の傑作フランス映画を網羅するアンスティチュ・フランセの企画から注目作をピックアップする企画で、昨年のカンヌ・パルムドール『落下の解剖学』のジュスティーヌ・トリエ監督の長編監督デビュー作『ソルフェリーノの戦い』を鑑賞しました。


映画の冒頭から、映画のリアルな生活の中に放り込まれるかのように、夫婦の戦いが始まる。主演レティシア・ドッシュ、別れた夫役ヴァンサン・マケーニュが良い味を出して、二人とも実名で出演していて、まるでドキュメンタリー映画の様だった。物語は、大統領選当日、ジャーナリストの元妻が取材に行こうとするも、別れた夫が幼い娘との面会を強要し家に押しかけ、二人が混乱していく様を街の群衆の混乱とを同時に描き出していくカオスなエモーショナル、音楽のセンスも面白かった。

上手くまとめようと思いましたが、映画の後、アンスティチュ・フランセ日本、映画プログラム主任、坂本安美さんのオンライントークの内容が素晴らしかったので、できるだけ忠実に文章にしました。


大きな時代を動かす出来事の中に、小さな物語、夫婦の関係、家族の事とか日々の色々な事っていうものを混在させている作品でもあり、それ自体も長編第一作目、実はこの作品本当に少ない予算で撮られていて、そういった事も含めて凄くチャレンジングな企画だと思う。

ジュスティーヌ・トリエがこの長編第一作目にどうやって臨む事になったのかと言うと、彼女自身は元々は映画畑の、映画監督として進んでいった訳ではなくて、フランスのヴォザールという国立美術学校に入ってアートを学んでいた1人。ヴォザールというのは、建築、美術、彫刻などのアーティストを育てていく17世紀から在る由緒正しい国立美術学校で、総合的にアートを学ぶ場であるため、映画の授業、映画を観る授業というのもあり、そこで彼女が観ていた映画というのは、フレデリック・ワイズマン 、レイモンド・バール、シャーリー・クラークといったどちらかと言うとドキュメンタリーの作品に興味を抱いて、ジョナス・メカスの作品を多く観ていたそうです。そういった作品にすごく影響を受けて、ヴォザールで技術を学んでいくうちに、何かこうアートの世界ってエリート主義で閉鎖的な様に感じて、自分は街の中に出て街で起こっている事を映画に撮りたいって思う様になったそうです。

学生の頃、映画がだんだんデジタル化していって、大きな機材を持たなくてもデジタルのカメラで街で映画が撮れるようになってきていて、そこで彼女は映画学校の学生ではないけれど、少しずつ自分で映画を学んでいって何本もの短編を撮るようになります。
最初はやはりドキュメンタリー作品が多くて、だんだんとそこにフィクションが入る。彼女が若い頃に出会ったフィクション映画として彼女に影響を与えた作品はジョン・カサヴェテス。そういったカサヴェテス的映画と、彼女が好んで観ていたドキュメンタリーがだんだんと彼女の短編の中で混ざり合っていく。そういった中で出会った仲間たちが居て、そこで演劇や美術をやっている仲間がいたり、主演のレティシア・ドッシュと出会う。レティシア・ドッシュはスタンディングのプレイ、1人で舞台に立って芝居をしたりする女優で、今年は監督した長編作品がカンヌのある視点に出品されたようです。
元夫役ヴァンサン・マケーニュが良い味を出していて。(彼は)元々、演劇・演出家で、ハムレット等を上演する優れた方で。そのヴァンサン・マケーニュとも、色んな人と映画を作る事を話し合って修行していく中で出会った。

弁護士のようで弁護士じゃないようなヴァンサンの友達が出演。アルチュール・アラリ、彼も監督であり、去年『ONODA』或いはその前の『汚れたダイアモンド』という作品を撮った人。
アルチュール・アラリとジュスティーヌ・トリエはパートナーであってお子さんもいらっしゃるんですけれども、アルチュール・アラリが必ずジュスティーヌ・トリエの映画に俳優として出てくる。それもまた面白いんですけれども。
そうやってジュスティーヌ・トリエはウェイトレスをしたり、劇場の窓口のアルバイトをしたり、或いはフランスなので失業保険等を受けたりしながら本当に結構貧しい生活をしながら映画を撮る修行時代があって。

そしてある1人のプロデューサー、エマニュエル・ショメというプロデューサーに出会って。エマニュエル・ショメは(日本の映画界で言えばそこまで…)まあそれでも少ないほうだと思うんですけど、すごい小さな予算だけど、それでも君たち映画を皆で作れるなら支援するよ、と本当にまだ無名の若手監督や俳優たちを支援して面白い企画だったら是非撮ろうっていう風に制作を担当するプロダクションのエマニュエル・ショメがジュスティーヌ・トリエにも『ソルフェリーノの戦い』を支援するという風に言って、それでこの企画が撮れるようになったんですけれども。

本当にきちんと出演料が貰えないような状況ながら、みんなで楽しんで撮っている作品であって、そしてご存知のようにエキストラではなく本当に選挙に来ているその人たち全員皆ある意味エキストラになっている映画で、実はゲリラ撮影であるので、皆、ニセのジャーナリストパスをもらってジャーナリストとしてレティシア・ドッシュはあそこでインタビューをして、皆んなジャーナリストだと思って映っているという。
そういったゲリラ撮影がされているんですけれども、まあ、あの時はサルコジが5年間政権をとっていて、何かこう塞がっていく様な世の中がどんどん何か閉じられている様な雰囲気があって。そういう中でまるでプライベートな個々の間の関係さえも、そうした政治状況に何がこう影響を受けて閉じられていく様な、そうした八方塞がりな状態っていうのがこの映画の中でも感じられて
大文字の出来事と小さな出来事というのが決して別々ではなくて繋がっている事も映画が見せてくれているのではないかと思います。 

そして今までジュスティーヌ・トリエの生い立ちを語った様に、ドキュメンタリーに凄く興味を持っていてワイズマン やシャーリー・クラーク、ジョナス・メカスの作品を観ていて、そこからだんだんフィクションに興味を持っていったというドキュメンタリーとフィクションの混在しているそうした作品作り、ある意味シネマ・ヴェリテ的方法とカサヴェテスの様な映画ってものがだんだんと彼女の中で混ざり合って一つのスタイルを作り上げていっている。そうしたものが『ソルフェリーノの戦い』という作品として生まれたのではないかと思います。

2013年に、この作品はカンヌ国際映画祭のアシッド部門という小さな部門なんですけれども、本当にまだ無名の監督たちを発掘する部門などで紹介されて批評家たちには本当に高い評価を得て、自分たちの世代の監督、それも女性の監督が誕生したという皆喜びが露わにして紹介されていたのを未だに思い出します。
ちょうど10年ちょっと前になりますね。で、『ソルフェリーノの戦い』の後、こういったシネマヴェリテ的な手法とカサヴェテス的な映画もいうものを推し進めていうのかなと思いきや、『ヴィクトリア』は、もちろん同じテイストも感じられながらもジュスティーヌ・トリエはもう少し古典的なラブコメディのスタイルに移行して、かつ『落下の解剖学』でも挑戦する裁判映画っていうジャンルにも挑戦する事になります。
で、ある主人公を演じているのはヴィクトリアという女性を演じているヴィルジニー・エフィラ、今最も人気のある女優で昨年は『ベネデッタ』に出演。
ジュスティーヌ・トリエ監督曰く、ほんとにコメディエンヌとしての才能に溢れている、かつ、その数分後には悲劇の主人公を演じられる。そうした様々な側面をもっている才能溢れる女優さんだと絶賛している。
本当に『ヴィクトリア』は、ヴィルジニー・エフィラの魅力を堪能出来るかと思います。

女性の弁護士であるヴィクトリアは夫と別れた2人の女の子の母親。『ソルフェリーノの戦い』がそのまま弁護士になった様な設定。そこにある事件が起こり、それを解決しながら自分自身の精神的な闇の部分というものにどんどん入って行ってしまい、その両方法的な弁護士としての仕事と色んなプライベートな、例えばセクシャルな部分だったり恋愛だったり、元の夫との関係ってものが並行して描かれている。
そうすると今観て頂いた『ソルフェリーノの戦い』と凄く構造的には似ていると思うんですけど、先程申し上げた通り、もう少し古典的なアメリカ映画的なプロットとして撮られています。是非『ヴィクトリア』観て頂きたいと思います。

そして今回『Cybil』、配信では『愛欲のセラピー』という、ちょっと頂けないタイトルが付いているヴィルジニー・エフィラ主演作品。精神分析医としての彼女、彼女のプライベートな部分、彼女の心の中、或いは身体的悩みが幾重にも重なっていく。そうした作品になっていて、これも本当に見甲斐の在る作品になっていて是非観て頂きたいと思います。

『そんなの気にしない』のアデル・エグザルホプロスは『アデル、ブルーは熱い色』『ファイブ・デビルス』に出演。今の現代的な女性、今を生きてる女性を魅力的に体現している女優さんの一人ではないかと思います。
今欠かせない女優さんの一人なので是非『そんなの気にしない』を観て頂きたいです。
格安航空会社の客室乗務員をしている20代の女性の話なんですけれども、最初は何も気にしないで自分が楽しい事だけやって生きている様に見える女性が、実は様々な自分の中の悩みだったり闇だったりを持っていて、そこの部分に自分が自分を見出していくというのを、本当に今だからこそ撮れる様な映画のスタイルで撮っていて是非観て欲しい作品の一本となっています。

ジュスティーヌ・トリエに戻りますと、次の『落下の解剖学』は裁判劇になる訳ですけれども、こうして観るとどっかで裁判だったり精神分析だったり、その言葉にする事で真実を得ようとする、真実を探している、そうしたテーマというのが凄く濃厚にあるというのが分かるんですね。
じゃあ、言葉を費やしていけば真実に出会えるのか真実を得る事が出来るのかと言うと、実はそんなに簡単ではない。けれどもやはり言葉を費やす必要がある。
そこのプロセスというものがジュスティーヌ・トリエの映画の面白さであり人間が真実を得られるかどうか、というのが難しいけれどもやはりそこに向かっていく大切さ、面白さ、辛さっていうものを彼女の映画はテーマとして描いているのではないかなという風に思っています。はい。

坂本安美さん

坂本安美さんの素晴らしく濃密なトーク、たいへん勉強になりました。
最後に質問の時間があったのですが、ちょっと思考がまとまりませんでした。
『落下の解剖学』での夫婦間の言い争いが、イングマール・ベルイマン監督の『ある結婚の風景』を想起し、ベルイマンからの影響を感じたことを含めて、質問ができれば良かったのですが。

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