怖れ

明らかにバグな気がしている。
DNAの初期値的に。
元々は個体の危機管理の為に設定されたのであろうか。この怖れるという感情は何故こんなにも容易に操作されやすくなってしまっているのだろう。

日常、怖い事ってなんだろう、って考えてみる。
里山に暮らしているが、クマが出るわけでもないので夜もあまり怖くはない。
お化け的なものも、このかた経験がないもので怖くない。
ネットのおかげで孤独もあんま怖くない。
失うものがほぼない立場にいるので、なにかを失くす怖れもない。失くしてしまったらしょうがない。

強いて言うなら虫が苦手だ。しかしこれはビビるって感じで恐怖て程ではない。
車好きの友人の助手席に乗った時、あまりに飛ばすので怖かった。
うん、あれは怖かった。

その程度である。
すっかり文明社会、安全な日本社会にぬくぬくと育ち、退化してしまったのかもしれない。
20代の頃、好んで危ないと言われるところへと旅をしていたのは、恐怖という感情を鍛える為の無意識の行動だったのかもしれない。
子供が怖い映画を観たり、ゲームでやっつけまくるのも、大人が作った安全な生活圏へのアンチテーゼなのかも。

社会的な出来事をみていると、危機感と恐怖感が一緒になっているな。と感じることがある。
危機管理は粛々と行えばいいのであって、怖れる必要はない。
むしろ怖れるが故に判断を誤ってしまう。
怖れるが故に自己防衛が働き、身勝手な判断になってしまう。買占めとかね。
そして怖れは、その事に気づかないばかりか正当化してしまう。

なんとも恐ろしいですね。

その怖れは、何によってもたらされているか。に目を向けると、大抵は人からの情報だったりする。さらに言えば、それらは保険のCMや、ワイドショーめいたテレビのニュース、新聞の情報だったりする。
所属しているところからの圧力とかもあるでしょうね。

それらはほぼ間違いなく何らかの意図がセットだ。
モノを売るため、視聴率を稼ぐため、決定に従わせるため・・

良く晴れた清々しい朝、あなたに怖れる事なんて本来ないでしょう。
あぁ、自分は健康の意識低い系なもので抜けていましたが、病気になる怖れとかはあるかもしれませんね。
でもそれは危機感があればいいのであって怖れる必要はないのではないでしょうか。

そんなことしてると病気になるぞ~、治らないぞ~という人からの情報には、一見思い遣るように見せて、何らかの意図が隠れてやしないでしょうか。

CMにしても、政治的な主張にしても、ニュースにしても、会議の進行でも、友人からのアドバイスにしても、
まず恐怖を煽るものである場合、すべて自分の中ではスルーしています。
私たちは怖れへの耐性があまりにもありません。
簡単に誘導されてしまいます。

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