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”やりたくない”を叶える

大きなことから小さなことまで、やりたくないことは、いっぱいある。

3人の娘が小さい頃は、子育てから逃げたくても逃げられない、365日24時間営業、ガチンコ勝負の日々を過ごしていた。赤ちゃんや幼児だった子どもたちは、私がいなかったら、命をつなげなかった。近くに母が住んでいて、ピンチの時はなにかと助けてくれたけど、私は頼るのが下手だった。夫は・・・いや、この話は別の機会にしよう。

子どもが大きくなった今は、ご飯作りたくない、とか、朝起きたくない、とか、その気になれば、やりたくない!という思いを叶えられる。子どもたちは、いざとなれば、私がいなくても、自分でご飯の準備だって、ほかのもろもろの家事だって、仕事だって、自分の力でやって、生きていける年齢になったから。そして、夫も生活能力は備えている。

とはいえ、私のおかげで、家族は、ずいぶんいろんなことが助かっているのは確か。私が生活にまつわる細々とした、名称もないような、でも必要なこと(あえていうなら雑事、家族をサポートしている人なら、大きくうなずいてくれるとおもう)を担っているからね。私が、夫と子どもたちの時間を余分に生み出している、ともいえる。

話を戻して。やりたくない、を叶えるときに問題がある。日々の生活に対して、夫や子どもたちが、求めるレベルと、私が求めるレベルにはギャップがある、という問題だ。
たとえば、部屋の綺麗さはどのくらいを求めるか?キッチンをどこまでピカピカに保つか?お風呂のカビはどこまで許せるか?見えないところまでチェックするのか、しないのか?毎日食べるご飯は、スーパーの総菜やテイクアウトでいいのか?お菓子で済ませるのか?それとも、自分でつくるのか?その頻度は?考え出したらきりがない。

つまり、私が家族の中でいちばんきちんとしたい人、というのが問題なのだ。性格は、雑で大雑把と家族から評価されている私だけど(笑)

もし、家を空けて、家族の生活っぷりが見えないときは全然気にならないし、家族のことをほとんど思い出すこともないだろう。何をしようが勝手やし。
そうして、ご機嫌さんで帰ってきたときに、家の中がぐちゃぐちゃだったら。埃まみれだったら。洗濯物が山積みだったら。流しに汚れた茶碗がほったらかしだったら。お風呂がカビだらけだったら。

私が永遠に帰らなければ、それで問題ない。どんな暮らしっぷりをしようが、私には関係ない。痛くも痒くもない。
でも、これからもここに住むのなら。出かけても、戻ってくる場所であるのなら。
結局、尻ぬぐいは私がすることになる。というか、私が求めるレベルの生活に戻す作業が発生する。そのことを考えると・・・考えるだけでゲンナリしてしまうのだ。

それは本当に起こるのか?やってみなければわからない。わからないけど勇気が出ない。余計な作業が発生するのはめんどくさい。できればやりたくない。

やりたくない?

あ。そうか。私が一番やりたくないのは、普段のルーティンで済む家事を増やすことやったんや!と、ここまで書いて気づくという。

それにしても、いつの間にこんなに高いレベル(あくまでも20歳のころと現在の比較であって、世間様との比較ではない)を求めるようになってしまったんや、私。独身実家暮らしの頃は、埃なんかで死なへん!と豪語し、料理など一切しなかったのに。

母が私の時間を生み出してくれてたんやなぁ。お母さんありがとう。歴史は繰り返す。

選ぶ権利は私にある。歴史は繰り返さなくてもいい。でも、今のところ、私は8割方、現状に満足しているのだとおもう。とはいえ、あとの2割の不満は解決したい。満足度100%への道のりはいかに・・・

人生はつづく。


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