全てのものはひとつに繋がっている

ずーーーーーーっとリラックスしたいって思ってるんだけど一向にできる気配がなくて諦め気味だったんだけど、今日久しぶりに昼寝3時間もできてちょっとリラックスを取り戻してきた感ある。けどその代わり日中はほぼ頭を使わずに過ごしてるから何も生産性ない日常を送ってるんだけど、でもなんかこの生活が合ってるんだろうなと思ってきた。読書とかアート作成とかしたいんだけど、頭を使うからそれだけで人生が全体的に苦しくなってしまうしリラックスできないということに気づいた。「読書はストレス解消になる!」「アートは幸福度を高める!」とか科学は言ってるけど、それが僕に当てはまる時と当てはまらない時もあるということに気づいた。そもそも「読書」って言っても簡単でわかりやすくて楽しい本と難しくて教科書みたいな事実の羅列しか書いてない本と小説とでは読書体験が違うし、アートも情報量が多すぎたりすると苦しいし、疲れてる時に無理やり脳に負荷をかけてまですることじゃない。

おそらく脳の体力が人の4分の1くらいしかないので、人と同じようなことをやろうとしてもできない。最近、結局僕は何をしたいんだろう?と考えた答えが出て、「時間を楽しみたい」という結論に至った。リラックスする時間、ぼーっとする時間、人と関わる時間、こうして文字を書いて確かめる時間、時間ごとに変わる感情を楽しみたいから僕はこの世界に生まれてきたんだと思った。無意識に動かされて自分が何を感じているかわからないまま進む時間は、死んでるも同然なんじゃないかと思ってきた。だってその時間を楽しんでないわけだから。その時間、僕はそこにいないんだから。勝手に別の誰かが動いて僕の人生を操作しているみたいになってしまう。それって自分で自分にできる殺人行為なんじゃないかと思ってきた。

この世界は多数あって、そのうちのひとつの歪みを僕は体験しているに過ぎないということに気づいてきた。その歪みの中で僕がやりたいことはなんなんだろうって考えた時に、周りから言われている「すべき」なことに時間を使うことではないな、と思ってきた。正直、「この人みたいになりたい」みたいな人物像を目標にして人生を生きるのは向いてない気がしてきている。なんか脳の構造が社会からかけ離れすぎている気がするから、その中で自分を表現できる方法を探すのが良いのかなと思ってきたし、それがやりたいわけだから、なんで人の決めた正しいに従って生きなきゃならないんだ、と思ってきた。まぁ読書は結構人生の役に立つとは思ってるんだけど、自分の体験を捨ててまでやることじゃない。

結局人生って、時間をどう体験するかってことなんだよな。「アート」も「読書」も「感謝」も、時間とそれを体験する主体がいなければ成立しないわけで。だから、その2つのものの関係が大事なわけであって、「アート」それ自体に価値なんて全くないということに気づいた。全ての物事は「関係」が一番大事だし、基盤なんだということに気づいた。単純化するために一旦「2つのものの関係」って言ったけど、例えば学校に飾られたアートを見る時には「学校」「アート」「主体」3つの関係が見られるし、もっと細分化すると「部活終わりの疲れ」「夕日」「視界の隅に映るロッカーのシミ」「その主体の過去の経験」など、関係性が無数に存在することに気がつく。「花も水も鳥のさえずりも、全てのものがひとつに繋がっていると知った」みたいな空海という偉人の悟りの言葉を聞いて「はぁ。すごいね。」と思ったのが最初の感想なんだけど、今日ナチュラルに「全てのものってひとつに繋がってるんだ」って思って、一瞬震えてしまった。自分の体験でそれがわかる時が来るって思わなかった。まぁ別に毎日シコってるから悟ってはないんだろうけど、体験によって何かを直感的に理解する、ってことが本の中の世界じゃなくて誰にでも起こり得ることなのかもしれない、と、ファンタジーだった悟りの世界観が現実味を帯びてきた。ずっと1人で悩んできたし、1人だと思ってたんだけど、誰かの遺伝子を受け継いで生まれてきてる限り、完全に人が1人になることなんて有り得ないなと思った。僕たちは生まれてきただけで、最初からこの世界の全てと繋がっているんだと知った。最初から本に書いてあったけど、人生で初めて実感できた。


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