1936年断章

はじめに
2015年1月16日に父は死んだ。仲違いをしていたわけではなかったが、父は下戸だったので一緒に飲むこともなく、過去のことをあまり語ることなく死んでいった。生まれは、 昭和11年、西暦1936年。その年がどんな年だったのか、調べてみた。

1936年1月4日
 この日、フランスのすべての新聞の一面にサン・テグジュペリの名前が踊る。リビア砂漠で消息が絶えていたサン・テグジュペリの生存が確認されたのだ。フランスの飛行士アンドレ・ジャピーの記録への挑戦での事故だった。同じ頃、生死をさまよった人物に寺田寅彦がいる。前立腺癌だったそうだが、前年大晦日に息を引き取り、教え子の中谷宇吉郎は、北海道大学に赴任するときに師から「君、新しい所へ行っても、研究費が足りないから研究が出来ないということと、雑用が多くて仕事が出来ないということは決していわないようにし給え」と言われたことを回想している。

1936年2月29日
 二・二六事件で首相官邸から中橋基明は帰順した。3年ほど前の彼は西南戦争で戦死した桐野利秋に並ぶおしゃれな軍人として名を馳せていた。雑誌「新青年」を愛読し、ロジェ・ガレの香水を身にまとい、ダンスホール「フロリダ」に通い、ダンサーたちに赤い裏地のマントは乃木希典将軍を真似たと語っていたらしい。軟派な将校をクーデターに駆り立てたのは何だったのか。座右の銘は、論語の「見義不為無勇(ㄐㄧㄢˋㄧˋㄅㄨˋㄨㄟˊㄨˊㄩㄥˇ)」だったという。昭和農業恐慌に続き、飢饉に喘ぎ、東北では年頃の女の子が身売りしなければならない現実に心を痛めたのだろう。ソ連労農赤軍参謀本部第4局のスパイであるリヒャルト・ゾルゲは、ドイツの学術誌「地政学雑誌 (ℨ𝔢𝔦𝔱𝔰𝔠𝔥𝔯𝔦𝔣𝔱 𝔣ü𝔯 𝔊𝔢𝔬𝔭𝔬𝔩𝔦𝔱𝔦𝔨)」に「東京における軍隊の叛乱」という論文を寄稿し、その中で「事件の根底には、農民と都市小市民の社会的窮状がある。」と指摘している。ゾルゲは大胆にも、この雑誌の創刊者カール・ハウスホーファーをミュンヘンに訪ね、ワシントン勤務の日本大使、親独派の出淵勝次へ紹介状を書いて貰い、「フランクフルター・ツァイトゥング (𝔉𝔯𝔞𝔫𝔨𝔣𝔲𝔯𝔱𝔢𝔯 ℨ𝔢𝔦𝔱𝔲𝔫𝔤)」の特派員として来日していたのでした。

1936年3月14日
 この日、北大の理学部物理学教室に所属していた中谷宇吉郎の助手、関戸弥太郎が、自分の着ていた防寒服の襟のウサギの毛を抜き、そこに人工的に雪の結晶を作ることに成功した。中谷の師の寺田寅彦が西洋流物理学と一線を画して提唱した「形の物理学」の一つの結晶であったと言えよう。

1936年4月4日
 ロンドンでは88回目のケンブリッジ・オックスフォード対抗ボートレースが開催される。勝利の女神はケンブリッジのチームに微笑んだ。舵手をつとめたのは、ジョン・ノエル・ダックワースだった。彼は同年8月にベルリンで開催されたオリンピックでも舵手をつとめたが、スタートからイタリア、ドイツのチームに引き離されてしまった。このレースで奇跡の逆転、金メダルを獲得したのはアメリカのワシントン大学のチームでした。何か、来るべき世界大戦の結末を予感させるレースなった。2023年クリスマス、ジョージ・クルーニー監督によるこのアメリカチームを題材にした映画 "The Boys in the Boat" が封切りされた。

1936年5月9日
 この日、エチオピア帝国を併合したムッソリーニはベネチア宮殿のバルコニーから聴衆に「15世紀を超えて再興したローマ帝国の栄光に君たちは相応しいか?」と問いかける。併合前のエチオピア帝国は日本との友好な関係を築いていた。お互いそれまで列強の植民地にはなっておらず、エチオピア帝国は大日本帝国憲法に倣って憲法を制定した。日本はロシア帝国を日露戦争で、エチオピア帝国は第一次エチオピア戦争でイタリアを破っていた。日本綿花はエチオピア帝国に投資、綿花の栽培を行っていた。さらには、エチオピア皇室の縁戚者アラヤ・アババが黒田広志子爵の次女黒田雅子に求婚したが、1934年に「某国」の干渉によって破談となっていた。
 この日、フランスの植民地アルジェリアの首都アルジェの「シャラ通り2の2」(現在はハマニ通り)に書店開業を計画していたエドモン・シャルロのところにフランスの作家ジャン・ジオノからの返事が届く。彼の作品「真の富(Les vraies richesses)」を店の名前に使用していいか問い合わせていて、承諾の手紙が届いたのです。この書店からアルベール・カミュが世に出ることになる。
 またこの日、ジャン・コクトーが世界一周の旅に出かけた船が香港に着きます。出航のときは、喜劇俳優チャーリー・チャップリンが乗船してきて、有名人同士語らいながら日本を訪れることになりました。

1936年6月6日
 この日の台湾の新聞には、前日、新竹市児童遊園地の付随施設として設けられた動物園 が記事になったことでしょう。開園後、6月19 日にはエチオピアからやってきたライオンが二頭、公開されて話題となったそうです。当時、東京以北最大都市であった函館の公園内に動物園が設置されたのは、この二年後の話です。いかに日本政府は清王朝が化外の地としていた台湾を内地と同様に扱ったかを示す一例に思います。
 欧州では、この日、トーマス・マンが61歳の誕生日をウィーン行き寝台車の中で迎えています。日記には「七時半、ヴァレリーと同行のオーストリア女性と食堂車で夕食。」とあります。このときの同乗者のポール・ヴァレリーの詩の一節「風立ちぬ、いざ生きめやも (Le vent se leve!.... il faut tenter de vivre!)」を引用し、堀辰雄は「風立ちぬ」を1936年12月雑誌「改造」に発表しました。

Intermezzo
 台湾が出てきたところで、豆知識です。台湾は、「フォルモサ」と呼ばれることがあります。この島を発見したポルトガル人が、「Que ilha formosa!(なんて美しい島なんだ!)」と驚嘆したことが語源だとか。中国語では、音を当てて「福爾摩沙」とも、意訳して「美麗島」とも書かれることがあります。面白いのは、同じ時代にパラグアイ川を下って探検していたスペイン人が、今のアルゼンチン最北の地あたりの湾曲に差し掛かって、「なんと美しい!(¡Qué formosa!)」と感嘆したのが、アルゼンチン最北のフォルモサ州の由来になっています。この2つのフォルモサが互いに対蹠地にあって「美しさの枢軸」をなしているのは、ただの偶然か。1936年当時、美の片端は日本領であった。逆の端を、小栗虫太郎は、「人外魔境」のなかの「水棲人」で主人公の折竹孫七に探検させ、グレアム・グリーンも「叔母との旅」の終盤で主人公をひとりフォルモサに寄らせている。美的歎息というのは、自己の卑小さに対峙したときに覚えるものなのかもしれない。

1936年7月11日
 永井荷風の断腸亭日乗には「流行唄忘れちゃいやよと題するもの蓄音機円盤販売禁止。」とある。そのような空気感の中、新青年七月号に、阿部正雄が「久生十蘭」の名前を使い、「金狼」の連載を開始する。大森銀行ギャング事件を絡めてあり、執筆中には、和歌浦事件で警察と銃撃戦をやらかした同郷の田中清玄のこともよぎったのではないかと想像する。確認はできないが、大藪春彦の「蘇る金狼」は十蘭のピカレスクロマンへのオマージュではないかと睨んでいる。
 同月25日早朝、上野動物園からオオカミならぬクロヒョウのメス一頭が脱走した。約12時間半後に捕獲された。二・二六事件、5月18日の阿部定事件、そしてこのクロヒョウ脱走がこの年の日本の三大ニュースであった。

1936年8月8日
 世界的視野に立つと、この年のスポットライトは日独関係に当てられていた。日本大使館付武官大島浩とナチスの外交機関蝶リッベントロップは日独防共協定に向けて外交調整を実施していた。大島は東京と電文で連絡を取ったが、ゲーリング空軍相が組織した機関が無線盗聴をしていた。ある親衛隊将校が女優との情事のためにお金が必要になり、ソ連のスパイ、クリヴィツキーの部下にこの記録の写真を売った。そして、そのフィルムがアムステルダムで待つクリヴィツキーに届いたのがこの日であった。陸続きの欧州では、ベルリンオリンピックが始まっており、それに対抗して開催される予定だった人民オリンピックの直前にフランシスコ・フランコがモロッコで、反乱の狼煙を上げている。そして8月19日には、スペインの作家ガルシア・ロルカが銃殺されている。ロルカに日本の俳句を教えたのは若きロルカが過ごしたマドリードの学生会館で出会った日本人中山幸一だという。

1936年9月5日
 ロバート・キャパが、ピカソの「ゲルニカ」と並んで、スペイン内戦のアイコンとなった写真「崩れ落ちる兵士」が撮影されたとされる日である。島崎藤村と有島生馬がこの日開催されたブエノスアイレスでの国際PENクラブの会合に参加している。藤村は、ルネサンス時代と同時代に活躍した雪舟の講演をして移住していた日本人は元気づけられたらしい。このときの会合が、スペインから亡命してきていた作家やラテンアメリカ諸国の作家のネットワークを形成し、後にロサーダ出版社の創業につながる。6月にウィーンに向かっていたポール・ヴァレリーはこのときブエノスアイレスにいた。

1936年10月10日
 この日、イタリア外相ジャン・ガレアッツォ・チアノはベルリンを訪問している。ローマに戻ってから、ムッソリーニは、「ローマとベルリンが世界の平和の枢軸となる」とのコメントを発表したのをきっかけに枢軸国という名称が定着した。平和とか正義とか究極の語彙には胡散臭さがつきまとう。チアノ外相の奥様は、ムッソリーニの娘であるエッダ。この奥様、張学良が阿片中毒で苦しんでいるときに、欧州外遊へ連れ出している。

1936年11月7日
 「法政騒動」を機に法政大教授を辞職し、文筆業に専念していた内田百閒、この日の日記に「第一回を谷中に時事へ持って行って貰ふ。谷中、午後再来。時事の第二回書いた。」と記している。第一回、第二回というのは、「時事新報」に連載する「居候匇々」の原稿のことである。渾名がネコラツというドイツ語教員の家に居候をする万成君が主人公で、ネコラツは、法政騒動をきっかけに内田を追い出す先鋒となった関口存男のことらしい。法政騒動の件がよほど癪に障ったのか、小説のなかでネコラツを相当いじっている。そんな百閒の幸福の絶頂は、1931年に42歳を迎える誕生日の5月29日、法政大学時代につとめていた法政大航空研究会会長として石川島R三型練習機「青年日本号」の離陸の合図の白旗をおろしたときではなかったか。機の前席に経済学部二年の栗村盛孝、後席に付き添い教官として朝日新聞社の熊川良太郎が乗り込み、3ヶ月がかりでローマに到着している。
 1936年に戻って、11月19日、アンドレ・ジャピーはパリと日本を75時間15分で結んだが、香港から東京へ向かう途中、佐賀県の脊振山に激突し墜落した。地元の村民に救出され、九州大学病院で治療を受け、回復している。日本滞在中にジャピーは、2人の日本人飛行士と出会い、イギリスのジョージ六世の戴冠式の取材のため東京-ロンドンを飛行する計画を、ソ連との関係悪化でシベリア上空は飛べず南ルートの飛行計画を支援し、成功させた。パリ五輪には間に合わなかったようですが、コードロン・シムーン機を復元し、佐賀から東京へ飛ぶ「赤い翼」プロジェクトが進行中だそうです。

1936年12月12日
 この日、国民政府の蒋介石が西安の東の華清池で張学良らに監禁された。これを機に国民政府が中国共産党軍を殲滅する機会も日本帝国と和平を結ぶ機会も失われてしまい、翌年、日中戦争へ雪崩込んでしまう。張学良と昭和天皇、同い年の二人の数奇な運命を我々は知っている。

おわりに
 種明かしをしますと、サブタイトルの日付は、doomsday なのでした。詳細は、英語版のWikipediaの ”Doomsday rule” の項に詳しいです。簡単に説明すると、いかなる年でも一定の日付が2月の最終日の曜日と一致するという法則です。1936年の場合、サブタイトルの日付けは全て土曜日に当たるわけです。doomsday の原義は、キリスト教における最後の審判の日という意味だそうで、2月の最後の日ということと掛けたのでしょう。
 1936という数字は、44の自乗で、この先の死屍累々を暗示するかのようだが、そんな年に、私の父は生まれ、生き残り、私を育ててくれた。改めて感謝。


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