ニーバーの祈りの文献学

はじめに

昔の話になるが、少しメンタルが弱っていた若かりし頃、宇多田ヒカルの楽曲の下のフレーズが心のどこかに刺さっていた。

変えられないものを受け入れる力  そして受け入れられないものを変える力を頂戴よ

「Wait & See 〜リスク〜」 宇多田ヒカル(2000)

数年してきっかけは思い出せないのだが、ニーバーの祈りに出会って、刺さっていた棘が取れた気がした。

神よ、天にまします父よ、
私たちに変えられないものを受け入れる心の平穏を与えて下さい。
変えることのできるものを変える勇気を与えて下さい。
そして、変えることのできるものとできないものを見分ける賢さを与えて下さい。
われらの主、イエス・キリスト。アーメン。」

「ニーバーの祈り」ラインホルド・ニーバー(1936年頃)

しかし、実のところ、このニーバーの祈り、ある意味、マーフィーの法則をはじめとする処世術のミームの一表現に思えてきて、祈りが流布したと言われる1936年前後で、それぞれ渉猟してみた。

先駆者たち(1936年まで)

穏やかな平静の心を得るために、第一に必要なものは、諸君の周囲の人達に多くを期待しないことである。

「平静の心(Aequanimitas)」 ウィリアム・オスラー(1899)

世にはわれわれの意のままになることもあるが、ままならぬこともある。われわれの意のままになるのは、判断、努力、欲望、嫌悪など、一語にして言えば、われわれの意志の所産たるいっさいである。ままならぬことは、われわれの身体、財産、名誉、官職等、われわれの所業たらぬいっさいである。

「幸福論」カール・ヒルティ(1891)

ヒルティの「幸福論」は、日本に東大の哲学講師であったケーベル博士によって初めて紹介され、以後親しまれてきた。実は、エピクテトスの「提要」全文を訳したものが、「エピクテトス」として章立てされている。

答えのない質問をして、到底達成できない仕事に取り組むことが存在意義になっている者がたまにいる。

出典不明 オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニア

君に平和をもたらすことのできるものは君自身以外にはない。

「自己信頼」ラルフ・ワルド・エマーソン(1841)

ラルフ・ワルド・エマーソンの「社会と孤独」の第二章「文明」にある “Hitch your wagon to a star.” は、「大地から星への道はなだらかではない。 Non est ad astra mollis e terris via. 」セネカの『狂えるヘラクレス』(Hercules furens), II, 437を踏まえたものと思われます。

太陽の下にある全ての病は、
治療法があるか、治療法が無いかだ
もし1つでもあったなら、それを探しなさい
もし何も無かったなら、それは気にしないこと

「マザー・グース」(1695)

他人を非難することは出来ない。というのも、誰も他人を理解することは出来ないから。

「医師の信仰」トマス・ブラウン(1643)

各々が自分の運命の織り手。

「ドン・キホーテ」セルバンテス(1615)

世の中には幸も不幸もない。ただ、考え方でどうにもなるのだ。

「ハムレット」シェイクスピア(1600)

運命は我々を幸福にも不幸にもしない。ただその材料と種子とを我々に提供するだけである。それら を、それらよりも強力な我々の心が、自分のすきなように、こねかえすのである。これが我々の心の状 態を幸福にしたり不幸にしたりする唯一の主な原因なのである。 

「エセー」モンテーニュ(1580)

諸々の存在のうち ある物はわれわれの権内にあるが ある物はわれわれの権内にない 意見や意欲や欲望や忌避 一言でいえばおよそ われわれの活動であるものは われわれの権内にあるが 肉体や財産や評判や官職 一言でいえばおよそ われわれの活動でないものは われわれの権内にない そして われわれの権内にあるものは 本性上自由であり 妨げられず 邪魔されないものであるが われわれの権内にないものは 脆い隷属的な 妨げられる 自分のものでないものである。

「人生談義」エピクテートス 

君がなにか外的の理由で苦しむとすれば,君を悩ますのはそのこと自体ではなくて,それに関する君の判断なのだ。ところがその判断は君の考え一つでたちまち抹殺してしまうことができる。

「自省録」マルクス・アウレーリウス(神谷美恵子訳)第8巻47

すべては想像力にかかっているのだ。名誉欲、浪費、所有欲がそれを目指すばかりでない、苦痛をも我々は想像力によって感じるのだ。自分はこうだと思いこむ分だけ人はみじめになる。

「道徳書簡集」セネカ(中野孝次訳)

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。7:5偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

マタイによる福音書 第7章

怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。

「箴言」旧約聖書

小括

ウィリアム・オスラー「寝る前にお薦めのの十冊」を挙げておく。ストア主義者の著作が多いことは、注目に値する。

  1. 「対比列伝」 プルタルコス

  2. 「医師の信仰」 トーマス・ブラウン

  3. 「オセロー/真夏の夜の夢/ハムレット/ソネット」 シェイクスピア

  4. 「エセー」 モンテーニュ

  5. 「自省録」 マルクス・アウレリウス

  6. 「提要」 エピクテトス

  7. 「ドン・キホーテ」 セルバンテス

  8. ラルフ・ワルド・エマーソン

  9. 「朝の食卓」シリーズ オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニア 

  10. 旧約・新約聖書

後継者たち(1936年から)


 ビジネス書の古典であり定番とも言えるデール・カーネギーやスティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』を読むと、その理論の多くにアドラー心理学と非常に近い考え方を見て取ることができるでしょう。また、コミュニケーションの技術として広く知られているコーチングやNLPの多くにも、アドラー心理学の影響が見られます。
 アドラー心理学は「人間性心理学の源流」とも呼ばれています。アドラーに影響を受けた心理学者は数知れません。著名なところではアブラハム・マズロー、ヴィクトール・フランクル、カール・ロジャーズ、アルバート・エリス、アーロン・ベック、エリック・バーン、エーリッヒ・フロム、ウイリアム・グラッサーなどが挙げられるでしょう。アルフレッド・アドラー(1870年2月7日 - 1937年5月28日)は、オーストリア出身の精神科医、心理学者、社会理論家。フロイトおよびユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した1人。 初期の頃のフロイトとの関わりについて誤解があるが、アドラーはフロイトの共同研究者であり、1911年にはフロイトのグループとは完全に決別し、個人心理学を創始した。そして、1912年に出版した「神経症的性格について」の序文でセネカを引用している。

Meanings are not determined by situations, but we determine ourselves by the meanings we give to situations. 

"What Life Should Mean to You" Alfred Adler (1937)

他の人間をマネジメントできるなどということは証明されていない。しかし、自らをマネジメントすることは常に可能である。

「経営者の条件」まえがき ピーター・ドラッカー(1966) 

前に進もうとするのを抑止する3つの「しなきゃ」があります:「(私は)上手くやらなきゃ」、「あなたは私に良くしなきゃ」、そして「世の中はもっと楽じゃなきゃ」です。

アルバート・エリス

アルバート・エリス(1913年9月27日 - 2007年7月24日)は、アメリカの臨床心理学者。論理療法の創始者として知られた。彼は短期治療法を信じ、ジークムント・フロイトによる時間のかかる手法に挑み、アーロン・ベックによる認知療法と共に、今では認知行動療法と呼ばれている分野の基礎を築いた。

他人と過去は変えられない。自分と未来は変えられる。

エリック・バーン


エリック・バーン(1910年5月10日 - 1970年7月15日)は、カナダ出身の精神科医であり、1957年に交流分析を提唱した。

内から外へ(Inside Outside)、影響の輪と関心の輪
影響の輪とは、実際に自分が変えることのできるものの連鎖で、自分の考え方、自分の行動、自分の仕事、自分が発言すること、他人への接し方、過去に起きたことへのものの見方、未来の選択の7つ。
「7つの習慣」スティーブン・R・コヴィー(1989)

敵を憎む時、かえって自分たちへの影響力を与えているのである:睡眠への影響、食欲への影響、血圧への影響、健康への影響、ひいては幸福への影響を許しているのである。 

How to Stop Worrying and Start Living (1948) デールカーネギー

我々が人生の意味を問うのではなくて、我々自身が問われたものとして体験されるのである。人生は我々に毎日毎時間問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。

「夜と霧」(”…trotzdem Ja zum Leben sagen:Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager”)ヴィクトール・フランクル(1946)

ヴィクトール・エミール・フランクル(1905年3月26日 - 1997年9月2日)は、オーストリアの精神科医、心理学者。著作は多数あり日本語訳も多く重版されており、特に『夜と霧』で知られる。

Cognitive therapy seeks to alleviate psychological stresses by correcting faulty conceptions and self-signals. By correcting erroneous beliefs we can lower excessive reactions.

Aaron Beck Source/Notes: Cognitive Therapy (1976) 

アーロン・ベック(1921年7月18日 - )は、アメリカの医学者、精神科医で、うつ病の認知療法の創始者として知られる。1954年にペンシルベニア大学に加わり、現在ベンシルバニア大学の教授である。現在国際認知療法学会の名誉会長であり、フィラデルフィアにてベック研究所を主宰している。認知行動療法の理論的基礎を形作った。

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

「ゲシュタルト療法バーベイティム」(1969)フレデリック・パールズ

フレデリック・サロモン・パールズ(1893年7月8日 - 1970年3月14日)はドイツ系ユダヤ人の精神科医、精神分析医。のちにゲシュタルト療法という心理学理論、心理療法の一つの学派を創設する。NLP開発のモデルとなった3人の天才的療法家の1人である。

小括
 ニーバーの祈りは、ストア哲学の倫理部門の大原則に由来する。ヘレニズム哲学の一派であったストア哲学は、ローマ帝国でのキリスト教の国教化に伴い、駆逐されたが、中世はスコラ哲学の中に命脈を保ち、ルネサンスによる人文科学の再興を経て、争乱の世に平静の心を求める賢人たちによって継承された。モンテーニュは「エセー」を書くことで自らを癒やした。キケローが「哲学は魂の医学である。」と語った所以である。現代では、第二次世界大戦をきっかけに「逆境に対する哲学」として認知行動療法をはじめとする心理療法や自己啓発に採用され、うつ病に対する科学的な有効性も確認されるに至っている。まさに「レジリエンス」や「反脆弱性」を地で行く思想と言えよう。

我々(2020年から)

そして現代欧米で "modern stoicism" がもてはやされている。 軍人、トレーダー、経営者など(重い決断をしなければならない役職者)に人気があるようだ。ニーバーの祈りは、逆境において平穏の心を保つための慰めの祈りであり、その逆、平穏のために逆境を強いることではない。この祈りのもととなったストア哲学は、奴隷から皇帝に至るまで多くの人の実践哲学となり、現代の認知行動療法や自己啓発本につながっている。しかし、マルクス・アウレリウスの「自省録」が本来出版されるためではなく本人の日記の類であったように、個人哲学であるべきであり、権力者、同調圧力に強制されるストア主義には、注意を要する。それは、自己犠牲の強要であり、平穏を餌にした破滅の序曲であるのだから。各人が自分の城砦を人に任せてはいけないし、人の城砦に手出ししないことが、幸福や平和の第一歩のように思う。


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