びっ栗 オヤジギャグは好物
森は湿度と乾燥のバランスが独特。乾燥したかと思えば、皮膚や衣にぴったと水が吸着し、潤うというより蒸し暑い夏の湿気を想起させる。静寂が身も心も包み、コットンに化粧水が潤沢に浸透するように、ひたひたと沁みいる。
ポスッ ポスッ
栗が土に近寄って、土が栗に近づいて
天から落ちる音がする
相槌でもうつように風吹けば
ふわり
舞う木の葉
静けさ
無駄がない
無理もない
ただ居るだけで満ち満ちてゆく
満ちてゆくのに、「なにか」が削がれていくばかりです。一体どこまで惜しみないのでしょうか。
ところが、また、水が出ません。「なにかの嫌がらせか…」と思ってしまいました。心が狭い。おちょこの裏なみ。ほどなく、水は出ました。
栗を拾って渋皮煮作ってみることにしました。試しに皮のままお湯で湯がいてから、皮を剥きました。するする皮が剥けちゃいました。炭酸も買ってアク抜きを試みました。その後、アク抜きしたお湯を捨てて、新たに湯がくことを二度試みました。すっかり色が抜けて風味はもちろん、舌にピリッとくる違和感まで感じました。湯がきすぎ、炭酸入れすぎです。
栗がまだ沢山あったので、もう一度試みることにしました。今度は皮付きのまま湯がくことを極短くしました。その後炭酸の量も減らして、二度ゆがきました。
っていうか、はじめに皮付きのまま湯がかなくても、皮は柔らかい。炭酸がなくてもアクは強くないことにきづきました。
静けさにある。栗と対話するには申し分ない環境です。けれども、感じきらないうちに、経験則で「渋皮煮を作る」、「栗の皮は硬いもの」、「アク抜きはしないといけないもの」として、かかわる自分にきづく。そのものを、そのまま、感じることなく「こういうもの」として「食ってかかって」いる。そのことに二度試みて、きづきました。それでもなお、惜しみなく差し出される「いのち」。
翌朝も、ポスッポスッと栗は落ちます。辺りにはわたしたちと、民家は1軒のみ。山の生き物たちとお裾分けしても、なお、ありあまる富。
籠いっぱい採れました。
そもそも、渋皮煮でなくとも、そのまま湯がくだけで、素朴で美味しかった。
なんだか、どうにも、こうにもこの日はきもちが荒ぶって、雲が覆って雨が降っているというのに、夜空にたしかに浮かんでいるであろう満月を感じたくて、外に飛び出していました。雨の音、水にまた、流してもらう。流れゆく水脈。そんなわたしに、ふと、きづく。
今日は、昨晩から栗を水に浸して置きました。それだけで、簡単に皮が剥けました。
炭酸もなしで、三度湯がきました。それだけで、アクもほどよく抜けた様子。甘さは目分量で、砂糖が解けてとろみ、照りを感じたら最後に一粒頂きました。もう少し甘さが欲しくて、再度きび砂糖を足しました。
やってみて感じる。みて、ふれて感じる。
栗とのひとときで、わたしを、こんなにも感じるだなんて。
そこはかとないです。
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