映像の世紀を見返して。一貫性はないよ

今の世の中が独裁政権や全体主義を語る以前に、歴史は繰り返すというけれど、ヒトラーがムッソリーニを「参考」にしてオリジナルをつくりあげたように、まったく同じということはなくて、共通の部分が似ているというところがミソなんじゃないか。
歴史から学んでるのは、案外為政者だったりもする。それは国民のための政治運営に、ではなく「どう政治運営をしていけば良いか」ということに関して。
常に目的はどう運営していくか、なのよね。
システムのお話になっちゃう。


ヒトラーは合法的に政権をとった。
それまでにクーデター起こして投獄されたりもした。
当時、政治犯を取り締まる法律がなかったのかザル法だったのかはわからないけど、その結果、獄中で死にものぐるいで「どう統治すれば良いか」を考えて「わが闘争」を書き、実行したのだと思う。
ナチズムは間違っていなかった、というのは戦後の論調として完全にアウトだ。
でも僕は、ナチズムのすべてを否定することはできない。
政治理念こそ誤りだし、ホロコーストは完全に間違ってるけど、当時の手法や考え方は手を変えを変え誰かの「参考」になって溶け込んじゃってるから。
それは「似ている」のレベルじゃなくて「形を変えてる」からとてもとてもわかりづらい。
ソフト面に限らず、ハード面に関しても。むしろハード面の方が多いかもしれない。
わかりやすさに傾倒しすぎると、とてもじゃないけど気づかないと思う。僕もわかるわけじゃないけど(笑)


岩波の「わが闘争」を上下巻読んだことがある。
非常にロジカルだし、中身を変えて今のビジネス書に反映させても普通に通用してしまうのかもしれない。
「図解!わかりやすい!我が闘争!」なんて本が出ちゃったら偏差値が高くて意識は高いけど、不安で迷ってる若い人たちには体に電撃が走るほどの衝撃を受ける人もいると思う。だからネオナチなんていうのがいるのかもしれない。
だから「何故ナチズムは間違っているか」っていう前提で話をしないとすぐに染まっちゃうのだと思う。
希望が持てない世の中、という大枠の前提はできあがっちゃるからね。特に平成に生まれた人たちなんて、好景気(バブル時を好景気と読んで良いのかは疑問だけど)


今と昔を比較するとき。表面的な特徴をいくつか目にして「いや、ここが違うから全体主義にはならんよ」といってただただ否定するのは、結局「大衆はわかっとらん」と思われる。
これは為政者側としてすごく都合が良い。


政治をしている我々はこういうことを今してますよ、っていうのだけを見るのではなく、それが今後10年20年経ってどうなる想定かと聞いたときに「未来のことはわかりまへん」っていう政治家が政権握るのはどうかと思うけど、はっきりと「こうなります!」っていってしまうと、背水の陣になる。
未来の言葉に責任なんて持てないから。
だから「こう思ってたけどこうなっちゃいました」って言う方が楽だし、実際そうなってる。
これは多分想定の問題ではなく、政治理念とやらの問題なのかもしれない。
ここでは過程も大事だし、結果も大事。
改めて「ちゃんと」政治をすることの難解さを感じている。
政治家として完璧である必要はないけど、人として完璧に近い人が選ばれないといけないのかもしれない。


話変わって、保守とリベラル、右と左とはなんぞや。
この2つは何故二分してしまうのか。
いつからなのか。
ここも探っていかないといけない。
三浦瑠麗の「日本に絶望している人たちの政治入門」ではコンパッションが大事だと言っている。


強い国を!自国ファーストを!というのと、国際協調っていうのはどちらかではなくて、並走していかないといけない時代になってるからこそ、僕らは大衆・民衆ではなく、「市民」にならないといけないのよね。


全体主義をあとからの批判をしたところで、亡くなった命は帰ってこないけど、そこから先の命は救うことができるかもしれない。


僕は目標を立てるのがものすごく苦手だし、実効性も薄いけど、もし目標を立てたとしたらその目標が理に適っているかよりも、コンパッションがあるかどうかを振り返られるような設定をしたいな。

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