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なぞとき

 大阪メトロで、謎解きのイベントが開催されている。期間は今月末まで。息子氏のたっての希望で、昨日、家族で参加した。

 率直な感想をいうと、「難しかった」。なのに、「すごく楽しかった」。謎解きは、一見矛盾するような感情を同時に抱く。それが、毎回、とても面白く感じる。

 「わからない」ことは、ストレスだ。嫌な気持ちになってやる気をなくす。しかし、わからないなりにも、少しずつ「わかってくる」と、とたんに気持ちが軽くなって、楽しくなる。
 「わからない」は不快だけど、「わかる」のは快感なのだ。それだけに「わかるようにする」営みは、楽しいことなのだ。たとえ途中の過程がものすごくシンドくても。
 謎解きは、「わからん、ムズい!」の連続だ。でも、解けて前に進めると、モヤモヤ、イライラが一気にふっとんで、心にエネルギーが充填される。次もがんばろうという気持ちが湧く。

 謎解きの問題を作っている人は、どうやってこのような問題や冊子を作っているのだろう。ただ街歩きをするだけで、こうした「謎」を用意できるとは思えないのだ。
 なぜなら、昨日家族で参加したイベントでは、たまたま謎解きで行くように指示された場所が、日頃からなじみのある場所だったからだ。何度も訪れたことがあって、謎解きの文章を読むだけで、現地にいかなくても解けてしまった「謎」があったほど、「知っている」。けれど、まさか自分が目にしてきたアレやコレやが、こんな解くのがワクワクするような「謎」になるなんて! 謎を解くのとはまた違った、新鮮な驚きだった。

 わからないことを、わかるようにすること。考えて、調べて、「解」を見つけ出すこと。そうした能力も、とても大切だ。しかし、もしかしたらそれ以上に大切なのは、「なぞ」を見出すこと。
 当たり前に見ている世界を、見えているままに鵜呑みしてしまうことなく、「ほんとうにそうなのか」と問う力。あるいは、周りにも注目してもらえるような、働きかけになる「なぞ/問い」を見つけ出し、差し出す力、なのではないかと感じる。

 街歩きをしながら、「なぞ」をキッカケにして、いろいろな路線、駅、まちを訪れる。「なぞ」を囲んで、「なぞとき」という共同作業をする。家族でそうした営みを楽しむのは、とても素敵なことだ。
 そしていつか、「なぞとき」だけではなく、「なぞあみ(謎編み)」。「なぞづくり」も、家族で一緒にできたらいいな、と思う。