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おてつだい

 昼下がり。陽の光がさす和室で、よく弟と「ごっこ遊び」をしていた。弟はヒーロー役。わたしもヒーロー側だ。きっと、兄弟で「見えない敵」と共闘していたのだろう。
 あるときには、自転車をこいでいた。補助輪をガラガラいわせながら、左右の足に交互に力を入れ、ぐんぐんこぐ。うしろから「おねぇちゃ〜ん、まぁってぇぇぇ!!!」弟の声が追いかけてくる。私は、笑いながら爆走をつづけた。もちろん最後は一緒に家に帰ったけど。

 幼い頃の記憶をたどると、ほとんど弟と遊んでいる。さすがにおむつを替えたりはしていないだろう。けれど、遊び相手はもっぱらわたしが担っていたようだ。

 物心ついたときには、既に両親は共働き。長女の自分にとって、「おてつだい」はごく当たり前のことだった。「たよりになる」とか「しっかりしてる」とか、母が褒めてくれるのがうれしくて。なにより、パートとはいえ責任を持って仕事をしていること、フルタイムで仕事して家のことまでしてくれていること、それをよくわかっていたから。小学生の頃…いや幼稚園の頃から弟のお世話をしていたっけ。洗濯物を取り込んで畳んだり、夕飯の支度を一部担ったり、「ふつうに」やっていた。

 家のことを回す、マンパワーの一翼を担っていた、とも言えるかもしれない。しょせんは子ども。自分は「やった!」とドヤる気持ちももっていたけれど、当時のことを客観的に見れたなら、実は「たいしたことはできていなかった」のかもしれない。とはいえ、家族の一員として、役割があった。役割を果たすと、母も助かる(ように見えた)し、なにより母がうれしそうにしてくれるのが、うれしかった。

 ワンオペなることばがある。それが「大変」「しんどい」という文脈で語られるのも、1人がたくさんの役割を担わざるをえない状況があるからだろう。1人が、24時間のなかで、できることは限られている。けれど、「後出しジャンケン」のように次から次へと「やるべき」ことが降ってくる。

 自分のことだけでも大変なのに、まして誰かをケアする立場ともなると、よけいに「やるべき」は増える。そんなときに、さしのべられた、だれかの「手」。その存在があるだけで、削られたHPが一気に回復する。

 昨年から、11歳の息子氏が、登校時にゴミ出しをしてくれるようになった。しかも、息子氏から言い出したのだ。
「ゴミ、出すよ!」
ありがとう。母の気持ちがわかった気がした。