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育てる

 ベランダで育てているプチトマト。今年3個目の実が熟れた。しわ一つなくピチッと張った赤が、日差しを跳ね返す。まばゆい。
 ビー玉ほどの実を、そっとつまんだ。こんなに小さいのに、指先にずっしりとした重み。茎とヘタが強く手を結んでいて、離れない。思わず気持ちが揺らいでしまったけど、グッと指先の力を強めて、もぎとった。

 収穫。うれしい。
 実が熟すまで育てるのは、楽ではない。目をかけ、気にかけ、水もかけて、栄養はかかさず。時間も思いも、注がないと健やかには育ちにくい。
 それは、植物も、人も、同じ。

「親はなくても、子は育つ」
なんて言葉もあるけれど、実際のところ、親または親の役割をしてくれる存在なしに育つ子どもはいるのだろうか。子は「育つ」けれど、「育てる」からこそ「育つ」面もあると思う。

 ただ、なにごとも「すぎる」のは、かえって「育ち」を阻害する。邪魔しない、でも放置しない。必要(そう)なときに、必要(そう)な支援をする。その按配が難しい。けれど、それでもやってみるからこそ、適度な分量・頻度・距離感がつかめるように感じる。

「蒔かない種は、生えない」
たしかに、そうかもしれない。けれど、だからといって種さえ蒔けばよいものでもない。
「蒔いた種は、必ず生えるし、花を咲かせて実をつける」
わけではないのだ。

 ついつい、やってしまわないだろうか。重い腰をもちあげて、植木鉢に土を入れ、種を蒔いて、土をかぶせ、水やりをする。そして翌日には、あわよくば発芽していないか、期待して見てしまう。
 芽生えるまでは、こまめに観察して、水やりもする。けれど、芽が出て本葉が増える頃には、その情熱が半分以下に冷めてしまって、しだいにお世話しようという気持ちを忘れてしまう。
 で、「なにか」が「あった」後に気付くのだ。自分の気持ちが別に向いて、蒔いた種に時間も心も意識もお世話も注いでいなかったことに。

 ああ、痛い。書きながら、昨年の失敗を思い出す。本当に、悪いことをしてしまった。
 ミニカボチャ、きゅうり、プチトマト、枝豆。種やら苗やら、植えたけれど、ことごとく育てきれなかった昨年。一度は芽を出し、育ちつつあっただけに、悔やまれてならない。
 でも、すべて後の祭り。失われた命は戻らないのだ。

 だからいっそう、今年の収穫がうれしい。育ってくれてありがとう。大切な実を、そっともぎ取って食べた。息子氏が。母も食べたかったよ。