見出し画像

糸をほどく勇気(と痛み)

しばらく前に
「他人に応援してもらえないかもしれないから、自分を認めて自分で決めて生きることなんてできない」って人に、私が
「自分で自分を認めていれば他人からの承認は必要ないよね?」て返したら
「自分の自由に生きるのは独善的だし、そもそもそんな正論認められない!」て返ってきたことがあって。

ちょっと面白いなーって思ったの^^
そうか。正論とか理想論に見えるのかーって。

え、でもよく考えてみて?全然、そんなことなくない?

「自分で自分を幸せにするリーダー」としての私(こちらのnoteで宣言したよ)は、
この「正論」を実践するために、これまでの自分や厳しい現実・事実とまず向き合う必要があったのね。
ものっすごく嫌だったし悲しかったし苦しかったし見たくもなかったけど。

ひとによっては(私はそうだった)これまで繰り返し自分を騙し・なじませてきてしまった考え方のおかげで
絡まりに絡まりまくった糸をほどいて、新しい自分の糸を紡ぎはじめるまでに、それなりの時間がかかると思う。
だってまずはこれまでと違う考え方・見方をするっていう勇気や発見や向き合う覚悟が必要だから。
それらがあっても、なかなかすぐには見えてこなかったりするから。

沢山ひとと話したし、泣きながら考えたし、今でもちょいちょい「えっここにも絡まった糸玉ありました…?!」てことがあるし。

「正論」を真剣に実現しようとすることは、めちゃくちゃ勇気がいることなんだよね。
向き合うこと自体が、これまでの自分の否定のような気がするし、そもそも変化することは、これまでの安全圏から出ていくことだから。

だから、勇気を持って考えて向き合った人の心は、めちゃくちゃ尊いしかっちょいいと思う。
いや、断言する!かっちょいいんです!!

逆から見て、正論じゃんって鼻でわらうような人がもしあなたの周りにいたら、こう考えてほしい。
変化しないことはすごく安全。でもそれはイコール、冷めて行く平熱を自分の意思で選んでるってことだと。
気付かないほどかもしれないけど毎日少しずつ、沈んでいくことだと。

変化って痛みをともなうけど、痛いから幸せじゃないのではなくて、
痛みも覚悟で進んだ先に幸せを自分で獲得することだと思うの。
残念ながら、幸せかどうかと快適らくちんかどうかは別のお話しで、むしろ逆かもしれないよね。
(最終的に、自分で自分の安心安全を作り出せるようにはなるけど)

そして自分が選んだ自由は独善的かっていうと、
自由であることは責任を持つことを選んでいる ということだから、独善でもワガママでも利己的でもなくて、自分の責任で周りに貢献できる自分でいることも選んでいるはず。
私はそうありたいと思ってるよ^^

読んでくださりありがとうございます☆サポートで美味しいコーヒーショップのミルクティを飲んで、またよい記事が書けるようにお勉強します!