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阿修羅のごとく(1979)

大人になった姉妹

唐突だが、このnoteは週に一度あげることを目標にしている。自分の書けることを考えて「ドイツ」をテーマの中心にあげたが(そしてそれが中核にあることは間違いないのだが)、その時々に考えていることについても書いていきたいと思う。というわけで、二週目にして既にドイツを離れてみる。(来週は戻ります。書くことは山ほどあるので。)

今回のテーマは何かというと、タイトルの通り、1979年に放送されたドラマ「阿修羅のごとく」について。向田邦子作品の中でもよく名の知られている本作だが、生まれる前に放送されたこともあり、実はこれまで見たことがなかった。

向田邦子はもちろんいくつか読んでいる。エッセイ好きを名乗るからには彼女のエッセイも読んだことがあるし(ベストはやはり「父の詫び状」)、寺内寛太郎一家も本で読んだ。でも実は彼女のテレビ作品をあまり見たことがない。やはり、世代の問題なのだろうが。

年末にNHKでデジタルリマスター版を放映していたので、何の気なしに録画しておいた。舞台がお正月から始まることを知っていたので、年始の休み中に見ようと思い、実家から帰ってきた次の日に見ることに。当初、家の片付けをしながら横目で見ようと思っていたのだが、すぐに私の目はテレビに釘付けになり、全く離せなくなった。

ここで簡単に本作のあらすじを書いておこう。舞台は昭和54年、正月に四姉妹が集まるところから始まる。日本文学で四姉妹といえば細雪を思い出すが、やはり「四人」というところに意味があるのだろう。三姉妹は現実に多くいるけれど、四姉妹となると中々見ない。ましてそれが美人揃いだと、姉妹が集まっているだけで華がある。冒頭でも次女の夫がそのようなことを言うシーンがある。幾つになろうと、四姉妹が集まるのは晴れがましい。

冒頭、集合をかけるのは三女で、三女以外はなぜ自分たちが集められたのかを知らない。お正月という祝日気分も相まって、皆が楽しくおしゃべりしているところに、三女が爆弾を投下する。70近い自分たちの父親に、愛人がいると。

昭和の世界

当初、他の姉妹はそれを信じない。それほどの甲斐性があの父親にあるとは思えない、と彼女たちは言う。愛人を囲うことを「甲斐性」と言ってのける辺り、ザ・昭和の世界である。余談ながら、この他にも三十路過ぎた女は行き遅れ、等の昭和的価値観があちらこちらに散見される。

ところが三女は証拠を持っているのである。父親と愛人とその子供が映っている写真を。これを見た他の姉妹は一斉に青ざめ、口々に父親を非難し、母親をいかに守るか、自分たちにいたのかもしれない弟への財産分与の可能性について思いを巡らせることになる。(のちに、子供は弟ではなく愛人の連れ子であることがわかり、この点は皆が胸を撫で下ろす。)

これだけであれば、昭和の価値観の中で虐げられてきた母親を思う心優しき四姉妹の話、なのだがもちろんそれで終わるはずはない。夫に先立たれた長女は勤め先の大旦那と不倫関係にあり、次女は夫の不倫を確信している。三女はこれまで一才男っ気なく暮らしており、そのため周囲から揶揄されがち。四女は家族に内緒で売れないボクサーと同棲を始めており、生活は困窮している。

そして、愛人を囲う70近い夫に裏切られている糟糠の妻=母親を含めた女性たちの会話劇が物語の中心にある。ここまで書いて嫌になるくらい、徹底的に昭和的価値観の世界なのである。男は外で稼ぎ、女は家で男の帰りを待つ。女の仕事は基本的に価値を認められない。例外的に外で働く三女は、「かわいげがない」と女からも揶揄される始末。

心の寂しさを不倫でしか埋められない長女。もちろん大旦那は自分の店や家族を捨てるつもりはさらさらない。夫が浮気していることを知りながら、専業主婦である以上、特に詰問もできない次女。ボクサーとして自立してほしいと健気に支えてきた相手が、減量中にも関わらずラーメンを食べ、挙句浮気していたことを知り愕然とする四女。(ちなみに、ずっと可愛げのなさを揶揄されてきた三女だけはこのドラマの中で真っ当に?恋をする。)

徹頭徹尾、女が男に苦しめられているのである。それは実は父親の愛人も同じである。彼女の子供が連れ子であることが、死別か離別か、いずれにせよ彼女が男のせいで苦労していることを物語っている。そして子に自分を「パパ」と呼ばせる男は、気持ちはかけてくれるが、結婚はしてくれないのである。

阿修羅は誰か?

だがもちろん物語はそこで終わらない。ひょんなことから四姉妹は、母親が全てを知っていることを知る(この過程がものすごくドラマ的で面白い)。これまで「守るべき対象」でしかなかった母親は、実はその心の内に燃え盛る思いを抱えていたのである。

一方、明らかに自分の愛人を「かわいそう」な人間だと思っていたであろう父親にも大転機が訪れる。愛人はさっさと別の男と結婚を決めたのである。おそらくこの関係を「純愛」と思っていた父親はショックを受けるが、彼女を正妻に迎えられないのは自分のせいだから、その決断を責めることもできない。

一方、長女は不倫相手の妻に家に乗り込まれてあわや流血騒ぎ、というところで相手の妻の掌の上で転がされていたことを知る(この時の大旦那の情けなさがまた笑えるのである)。次女の夫は墓穴を掘り、自ら妻に不倫をばらしてしまう。四女はどうしようもない男の子供を妊娠、腹を括るしかない。

男に苦しめられていたはずの女たちは、実はみんな全てわかっていて、そして男たちに期待していない。だからこそ何も言わない。何も言わないから、男たちは女をつまらない人間だと思って侮る。男には男にしかわからない世界があるんだよ、とかなんとか言って。そして自分より格下の人間と思っていた女たちが実は全てお見通しであることに気づき、愕然とするのである。

この大どんでん返しを俳優が表情で魅せる、それこそが本作の魅力だと思う。一方で、怪演に目を奪われながら、この構造は意外に現在にも潜んでいるとも感じた。自分より格下だと思っている相手は、実は全て分かった上でその構造に甘んじているふりをしている。昭和的価値観からは少しは進んだ気になっているけれど、実はこの国の構造は大して変わっていないのではないだろうか?それこそ、揶揄される女性の年齢が「三十路」だったのが「三十五」に変わるくらいの変化はあったかもしれないが。ため息をつくと同時に、昭和の才女の才能を羨んだお正月の1日であった。

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