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堂島米市場の歴史

教科書には載っていない、相場の歴史を中学生でも分かるように書いていこうと思っています

是非多くの人に昔の日本の相場の取引が素晴らしいシステムの上に成り立っていたと知って欲しいので今回は無料記事で投稿させていただきました

普段、過去の相場を知ることで今のトレードに活かせることが多いと思います

トレーダー目線でこの記事を書いたので、書店などで売られている歴史本とはちょっとテイストが違うと思います


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今回は、主に堂島米会所(堂島米市場)についてお話したいと思います

ざっくり言ってしまうと昔、お米の取引をしていたところです

お米の取引と言ってもそこには今の株取引に繋がる歴史があるんです

場所は今でいうと大阪駅の近く、堂島川に面しているところにありました

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(大阪・堂島中之島付近)


堂島米会所が出来たのは江戸時代

江戸時代というと、かなり昔に感じるかもしれません

大政奉還によって江戸幕府がなくなり明治政府に移行したのが1868年ですから、152年前は江戸時代です

ざっくりヒヒヒヒ婆ちゃんぐらいでしょうか?(ざっくり過ぎる)

まずは、堂島米会所の”米”について見ていきましょう


1)米の重要性


当時の米というのは単なる主食ではありませんでした

年貢という、現在の私たちでいう税金に相当するものでもあったのです

米が年貢だった理由として、江戸時代以前の通貨に対する信用がなかったことが挙げられます

年貢を金銭にするには、通貨が統一されている必要があります

しかし戦国時代では、地方の大名が各々の通貨を作り流通させていました

また過去に大陸から輸入した渡来銭も流通しており、一元化した統一通貨というのは無かったのです

江戸時代に入ってもこの状態はしばらく続きましたが、幕府が通貨を一元化していきます


2)米の取引の形態

では当時の米というのは、どのような形で取引されていたのでしょうか?

米俵を運び、取引をするのは不便ですし、流通という意味で非常に非合理的です

当時の人々は取引を簡素化するために、米切手(米手形)というものを用いていました

米切手には扱っている米の種類や量、交換できる期限などが書いてあります

今でいう手形に近い存在ですね

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金沢蔵米切手
出典:蔵屋敷2 / 大阪商業大学商業史博物館

実際の米は蔵屋敷と呼ばれる保管場所に納められています

蔵屋敷に米切手を提示すると、そこに書いてある量の米を受け取ることができました

1971年(ニクソンショック)まで続いた金本位制みたいなシステムです

また、蔵屋敷に備蓄がない場合には金銭で交換することもできました

雑な言い方をすると、商品券のようなものです


3)堂島米会所の成り立ち


財政悪化に苦しむ各藩は米を売って資金調達をしたかったし、商人たちは米を商うことで利益を得たかったのです

米が納められ、現金化され政策なり藩政なりに使われるのですから、通貨のような性質を持っていたのですね

米切手はそのまま交換するだけでなく売買の対象でもありました

米切手を手に入れた人は転売することが多く、米切手は色々な人の手を渡り歩いていきました

こうなると、今でいう証券として機能していますよね

あくまで米切手なので、交換できる期限は決まっていて一年や一年半くらいの期限だったようです

しかし、米切手というのは一つ問題を抱えていました

取引をしようとする時に相対取引となってしまうのです

※相対取引・・・証券取引所などの市場を通さずに、売り手と買い手が当事者同士で価格や売買数量などを決めて行う取引のこと

そのためトラブルも起きますし、相手を探すのも大変です

売りたいときに売る、買いたいときに買うということが難しかったのです

そこで商人たちは、より簡単に取引ができる仕組みを作ろうとしました

そこでできたのが、堂島米会所です

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浪花名所図会 堂じま米あきない [1] 出典 国立国会図書館


4)堂島米会所の役割


堂島米会所では、大きく分けて二つの取引をしていました

・正米商(しょうまいあきない)・・・米切手を売買する取引
・帳合米商(ちょうあいまいあきない)・・・1年を3季にわけて延売買する取引

正米商は現物取引に近い形態ですね

米切手を引き渡しをする場合、実際に米を受け取る方法と金銭を受け取る方法があります

米の引き換え用の切手なのになぜ金銭なのかというと、各藩は生産していた以上の米切手を発行していたからです(今でいうと信用創造)

米切手を販売する取引なので、米がなくても発行できるのが米切手だったのです

今回は帳合米商について詳しくお話します


5)帳合米商とは


米切手を扱う正米商の場合、きちんとどこかの藩屋敷にある米の権利を売買します

立物米を扱う帳合米商では、実際の米を取引で見ることは基本的にありません

ここでは米の価値を標準化して、立物米(たてものまい)というものを扱うようになります

この数値は純粋に米というものを数値化したものを扱うのです

これを期限を分けて取引することで、差金決済で取引していたのです

※差金決済・・・受渡日に買付代金、または売却有価証券の提供を行わずに、反対売買の差金により決済することというのは、実際の米切手を扱わない取引になります

参加者は取引のみを行い、そこでは帳面での貸し借りしか発生しませんでした

今でいうとCFD先物取引(差金取引決済)のようなことが行われていたのです

これの何が凄いのかというと…

今までにない、迅速で広い取引が可能になったのです!


6)帖合米商の仕組み


帖合米商の仕組みについて説明をしていきます

帖合米商は、取引の期間を決められています

一年を3つに分け、その期間の終わり(満期)には自分が持っているポジションを精算する必要がありました

買いのポジションなら売り、売りのポジションなら買いで相殺する必要があったのです

売りでも買いでも取引を行うと、毎回取引手数料を払わなければなりませんでした

手数料自体はかなり低めに設定されていました

きちんと利益が出ていれば、無視しても良いくらいの割合です(0.08%くらい)

当時は取引の場所に支配人がいて、彼らに向かって手を使ったサインで買いと売りを行っていました

支配人は買いと売りが一致した場合に取引を成立させます


次に、実際の金銭の動きや取引の内容を見ていきます

取引では売り買いどちらからポジションを持つことはできますが、何を一体売り買いしているのでしょうか?

彼らが取引するのは、その期の満期になったら立物米を買う(売る)権利なのです(今でいうオプション取引に近い形態)

例えば、買う時が100円だったとしましょう

正米商いであれば、買って期日内には実際の米が手に入るわけですが、帖合商ではそうではありません

あくまで買う権利だけを100円で買っているのです

そして、満期が来れば米ではなく反対売買である売る権利で決済をしないといけません

では、米価がこのように推移したとしましょう

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この場合、期始めにポジションを買いで持っているのでどんどん値段が上がっていきますよね

買いをしたほうが有利なのですが、その分売りを掛ける人は少ないのです

この場合5のあたりで頭打ちになっていますから、ここで一度売ってしまうと差額分の利益が確定できます

そして様子を見て売りポジションを持ち(ドテン売り)、満期あたりに下がってきたところで反対売買で買えばさらに利益が出るわけですね

そのため、帖合米商の参加者は常に動向を見て取引を行っていました

上がるのか下がるのか、取引が多くなるのか少なくなるのか、立物米の品質や備蓄量の不備によって不安材料が出てきたりしないかなど・・・

また、ここでは帳簿上でしか取引がないとお話ししました

例えば、毎回100円で100口買ったとしましょう

必要なのは10000円になります

これを繰り返し取引するたびに実際の金額でやり取りするのであれば、非常に面倒になってしまいます

帳簿上の取引履歴しか残らないので、毎回資金を提示する必要はありません

損益の差の分だけ資金が用意できれば良いわけです

そのため、例えば実際には10000円で始めた取引でも、何回か売買を行って利益が出てくると何倍もの規模の取引をすることが出来ました

こういう部分は証券会社経由で取引している今の私たちとほとんど変わりません

決済するまでは決済代金の三分の一程度を胴元に預けておけば良く、少ない元手資金でも大きな取引をすることもできたのです

先ほど長い目で見た買いと売りは説明しましたが、変化は日々起こります

現在の日経平均や為替のような変動が起こっていたようです

朝買ったものを昼までに売り、昼からはまた別のポジションで・・・と何度も取引を繰り返すことが出来ました

そのため長期でのポジション売買というだけでなく、日々何回も取引するようなスキャルピングのような取引も可能だったのです

※スキャルピング・・・数銭から数十銭というわずかな利幅を狙って、一日に何度も取引を繰り返して、利益を積み上げていく投資方法

チャンスという意味では、今と変わらない環境だったのではないかと思います

勝つものは少額で始めても数十倍もの金額にすることもできたし、負けるものは資金を溶かしてしまう、危うい世界でした

取引を仕切る米仲買という人たちからしてみれば、取引を沢山してもらったほうが良いわけです

そのため、基本的に仕組みは取引を繰り返したほうが儲かる様にできていました



7)帖合米商の問題点


この帖合米取引というのは、現在でいう先物取引に該当する取引になります

そのため市場が過熱すれば実際の米価から大きく乖離して、暴走する危険性があるはずです

そのため、高い信用性が要求されます

堂島の米取引では、そのための仕組みが出来ていました

まず、ここに参加できるものは信用が置ける者だけです

これはこの取引所が幕府の信任を得られず、保証する胴元を得られなかったことが理由です

取引をするためには保証金が必要であり、取引を果たせない者は信用を失い参加する権利を失ってしまいます

内輪での信用を高めることで、大きなリスクの発生を抑えていたのですね

帳合い取引には支配人がいて、取引を支配人に集中管理させることで、買いと売りが飛びあう市場の構造を作ったのです

前述していたように株と呼ばれる資格を持っているものでないと参加できないといったような制限も設けてはいたのですが、それだけでは不十分です

帖合米商の米価が余りにも乖離すると、例外的に米切手での決済が認められていました

立物米の選定や米切手での対応などがあるからこそ、指数としての取引でありながら米と紐づいていたのです

取引を行う上であまりにも逸脱した行為を行うものに対しては、参加できなくなったり、内部での監視機能もあったようです

ところが、経済を制御したい幕府には、実体経済を乖離する可能性のある堂島での米の先物取引というのは認可できるもではありませんでした

しかし強い需要があったため根絶することはできず、認可はしないが圧力を掛けるいう形をとっています



8)享保の米余り


幕府の堂島取引所への姿勢が変わるのは、第八代将軍吉宗の時代になります(在職:1716年 ~1745年)

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徳川吉宗(在職:1716年 ~1745年)

この頃の江戸幕府というのは非常に財政的に悪化しており、立て直しを迫られていました

そのために行われたのが、享保の改革です

その一つに、米価の低迷に対する対策がありました

当時の気候は非常に安定しており、戦争のないまま100年以上も経過した国内では農地も増加していたのです

結果米は余り、米価は低迷していきます

幕府や各藩からしてみると、米価の低迷というのは重大な事態でした

幕府は米価低迷に対する対策として、堂島の取引所に対してある行動を起こします


9)政府公認の取引所へ


1730年、幕府は取引に関して、正米商(米切手の取引)と帳合米商を行ってよい、とお触れを出しました

堂島での取引を公認したことになります

幕府は米価を上げる方法として、堂島米会所での取引を利用しようと考えたのです

特に帖合米商については、投機的な要素があるため認められること自体は非常に重要な出来事だったのです

ですが、幕府は米価の価格を適正に保つために認可されているのであって、きちんとそれを弁えて取引をするようにと釘を刺しています

正米商いについては幕府はその訴訟について関わることになりましたが、帖合米取引に関しては受け付けませんでした

利用はするが、規制自体は必要だという認識があったのでしょう


10)米切手の発行とトラブル


こうして取引を行っていた米の取引ですが、多くのトラブルがありました

時代が経るにつれ各藩の財政は逼迫し、実際の米がないにも関わらず米手形を切ることが多くなっていました

1737年に広島藩蔵屋敷で起こった米切手の過剰発行についてお話してみましょう

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広島藩蔵屋敷のレイアウト
出典 広島藩蔵屋敷跡発掘調査(HS01-1次)現地説明会資料

広島藩は、蔵屋敷に備蓄している米が3割程度しかないのを承知しながら、10割の米切手を発行していました

それに対して、米切手をもっている商人たちは米の引き渡しを求めてやってきたのです(取り付け騒ぎというやつです)

しかし、米はありません

米の引き渡しを要求してきたのは商人ですが、彼らは米を欲しかったわけではありません

米がないだろう、というのを脅し文句に使って支払いの実行を求めてきたというのが実際のところではないでしょうか

藩が発行する米切手というのは、今でいうと社債のようなものだと考えていただいても良いかもしれません

それらは示談で処理されたりしたので、歴史には残っていないものが多いようです

堂島での取引も実際の米とは距離は離れていますが、基本的に米に起源を持つ取引になります

実際には備蓄と米切手の数量は一致することは無く、市場には実在庫以上の米切手が流通していました

証券というのは複雑化すると問題が起こる可能性が高くなり、そのためにさらに信用性を高めないといけません

幕府は自分の存在を支えるために必要不可欠な米の価値を維持するために、色々な手を尽くして対策をしていたのです

市場に流通する米切手の量が増えすぎないように取り締まりをしたり、幕府が米を買い上げることで米の流通量を制御したり・・


11)堂島米会所の終焉


堂島米会所は成立してから、明治のころまで続きます

しかし、倒幕活動などの政情不安や飢饉などにより実際の米価と連動しなくなると取引に対しての規制が加えられることになりました

基本的に帳面のみでの取引だったのですが、最終的に実際の米との交換でしか行えなくなってしまったのですね

こうなると、先物取引としての取引の魅力が無くなってしまいます

この時点で、堂島米会所の役目は終わることになりました

そして明治時代に押し進められた明治維新により、次第に時代の流れに忘れ去られていくのです

終わりに


ざっくり、堂島米会所の歴史をお話をしてきました

実は今、定額マガジンでは相場の神様、本間宗久について言及しています

本間宗久が生きた時代に存在した米市場ことがわかれば、読者に深く相場のことを理解してもらえるんじゃないかなぁーという想いで書きました

相場とは関係なく、米市場単体をより詳しく知りたいという方はこちらを是非読んでみて下さい


200年以上前に、これほど高度な取引システムがあったなんて驚きじゃないですか?

当時は現代のような通信機器や機械などもなく、全て人の手によって行われていたのです

信用創造に同等するするようなことが行われ、先物取引や差金取引、オプション取引のようなことも行われていました

人々の欲望が社会を効率化させていくんだなぁーと思いますね


最後に・・・

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