書くことの意味。

note 便利ですね。

久しぶりに1年以上前に書いた記事を読み直しまして、「あの時の私、こんなこと考えてたんだー。」と感慨にふけっております。記録をしていたからこそ、その時の私が何を考え、物事をどのように捉えようとしてたのかが、よく分かるのです。

Web上で気軽に過去の自分の痕跡が見られるというのは、かなり便利です。私は普段、キャンパスノートとパイロットの4色ボールペンを愛用しており、それを使用しながら研究計画書や、日常で起こったことを書いているのですが、どうしても直筆ですと、中途半端に終わってしまいます。直筆ノートだと、見知らぬ誰かに読まれる&見られる恐れがないため、途中で飽きて3行で終わっている文などで溢れておりますが、noteですと「とりあえず形にしよう」という意欲が働きまして、そして、文をある程度カタチにして投稿できますから、後から読み返したときに分かりやすいのです。

noteはWeb上に投稿されている以上、誰かに見られる&読まれる可能性は直筆ノートよりも可能性は高いのですから、一応どなた様に見られても恥ずかしくないよう、最低限まとめようという意識が働くのだと思います。

果たして、その文章を書いた時よりも、私は成長しているのかどうか。それが客観的に分かる材料になるかと思います。

面白いことに、私たち人間は自分自身の姿を自分でみることは、決してできなですよね。私は私を見ることは、決してできない。つまり、直に見ることができないということです。普段私たちが自分の姿を見るとき、それは何か媒介となるものを通して見ているに過ぎません。というか、媒介がなければ絶対に私を見ることはできないのです。

それは内面的なものも、外面的なものも同じだと思います。鏡は自分の外面的な部分がよく分かりますね。写真とかビデオもそうですね。よく昔のアルバムを見つけて「こんな小さかったんだ!」とか「あの頃は若かったねえ。」と話しますが、これは過去の私が写真やビデオという媒体を通して記録されているからですよね。だから「今」と比べて、年取ったーとか、若かったーという事実を私たちは知ることができます。

内面的なものに関してはどうでしょう。これはやはり、コトバ、じゃないでしょうか。コトバ以外に私たちの精神的な部分を表現できるものは、管見のおよぶ限り、皆無ではないかと思うのです。

「精神=思考=言葉(コトバ、ことば)」だと私は思っております。

よくメンタルヘルスケアなんていいますが、自身のメンタルヘルスをケアする一方法として、noteはかなり便利です。無料で使用できますし、どなた様かに読まれる可能性もありますし(なんだか、あれですね、家の中にいるときには化粧しないけど、外に出るときは一応キレイに外面を整えるというのに似ておりますね)。

忙しいときこと、noteする。必須ですね。


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