倶楽部サピオセクシャル日記138:「ウォール・マリア」必須? 拡大する「私」がもたらすのは融和か同調圧力か?
仕事が立て込んでくると、光陰矢の如しを実感する。昨日まであわただしく東京出張。車中では原稿に追われた。という言い訳をしつつ、先々週のまとめを書いてみる。
◆「進撃の巨人」における3重の壁
前回の流れを受けて設定したテーマである。「ウォール・マリア」というのは人気漫画「進撃の巨人」に登場する壁の名前だ。作中では、人類は人を喰らう巨人の脅威にさらされており、安全を確保するため3重の壁を巡らせて生活圏を守っている。壁にはそれぞれ名前がついており、「ウォール・マリア」はもっとも外側の壁――脅威と常に相対する壁である。
もともとは実用的な必然性から生まれた壁だが、作中ではそれを信仰の対象とする宗教が登場する。「対象への深い依存が長く続くと、その存在意義を霊的なものに昇華したがる癖が人類にはあるよね」というメタファーは、現実の社会の鏡にもなり得る気がして興味深い。
では、3重の壁――外から「ウォール・マリア」「ウォール・ローゼ」「ウォール・シーナ」はなんのメタファーなのだろう? 今回のテーマになぞらえるなら、マリアは社会と相対する壁、ローゼは肉体的な接触を阻む壁、シーナはアイデンティティを守る壁と言えるかもしれない。
◆「私」から「私たち」へ 拡大は自然な成長過程か
人は最初に意識するのは「私」である。その後、成長に伴って「私たち」と認識するようになり、さらにその範囲を広げようとする。自然な社会的成長の過程である、と語る方がいたが、ぼくはこれに違和感を覚える。
端的にいえば、勝手に「私たち」に含めないでほしい、と反射的に考えるのだ。子どものころから、他者と馴染まない存在だった。群れるのが嫌いであり、忌避感が強いがゆえにフリーランスで通してきた。
「私たち」の拡大は他者の壁との接触を意味する。接触後、壁を壊して融合することで「私たち」は広がっていく。その際には同化が必須であり、強者による価値観の吸収合併が行われる。
「私たち」という言葉を使うのは、結局のところ強者だろう、と語った方がいた。まさにそのとおりであり、「私」の拡大は人が持つ自然な権力意識によるところが大きい、とぼくも感じる。
◆壁の高さや素材を選ぶ
壁の高さや素材、という話題が出たのは興味深かった。内側が見える高さか? 近づくと人が傷つく素材か、あるいは柔らかく受け止める素材か? 壁の在り方には選択肢があり、選び方によって社会との関係が変わる。
個人的な話になるが、ぼくは相手によって壁の高さを変え、素材も変えている。触れれば高圧電流という壁もあれば、またいで越えられる壁もある。もっとも忌避するのは「べき」を携帯する輩である。
「○○すべき」は他者の壁を一方的に破壊して同化を強いる鉄槌である。無自覚に担いでうろつく「正義の味方」をSNSではよく見かける。ぼくはほぼ自動的にブロックしている。正義の味方はぼくにとって巨人に等しく他者を貪りくらう存在にほかならない。
というわけで、次回は「正義」について語ってみたい。
◆まとめ
「進撃の巨人」は悲劇的なクライマックスを迎える。以下はネタバレになるので、まだ読んでいない方はここでスクロールを止めた方がよいだろう。
すべての壁が壊れた後、主人公のエレンは暴走し、世界を踏みつぶそうとする(ちなみに、この踏みつぶすという表現はメタファーではない)。壁は外界から個人を守る存在であったのと同時に、個人から外界を守る存在でもあったのだ。
「進撃の巨人」の終わり方は逆の意味でも象徴的である。暴走したエレンはもっとも親しい存在だったミカサに命を奪われる。彼女が最愛のエレンを刃にかけた理由こそ「私たち」だったはずだ。
権利や責任という意識が「私たち」にはつきまとう。愛から発した「私たち」を起点に「エレンの暴走を止める責任がある。彼に罪を犯させるわけにはいかない」と思い至る経緯は興味深い。