見出し画像

学級崩壊を恐れて思考停止

 人はいつから考えなくなるのか?

 人は考えているようで考えていない。積極的に疑問を持っているようで、物事の核心には触れないように、丁寧に丁寧に考えたり考えなかったりしている。頭に沸いた疑問を、そっと圧し殺して、これ以上は考えないようにする。そんな癖はいつどこで付いてしまったのか?

 「あの人の名前なんだっけ?」

 「あれって何て言うんだっけ?」

 誰もが日常で絶えることなく持つ疑問。その瞬間すかさずスマホで検索して答えを探そうとしていますか。その瞬間ではなくとも、後で必ず調べるようにしていますか。これを読んでいるほとんどの方はしていないのだろうと思います。貴方は立派な『圧し殺し族』です。

 「スマホは便利」。スマホ依存症などの有害性が語られる度に、対抗馬として名乗りをあげる言葉です。スマホは便利です。異論はありません。スマホは有害です。それも異論はありません。ところで質問です。皆さんは、スマホの有害な部分を削ぎ落とし、スマホの有益な部分だけを享受しようと心掛けていますか。まさかとは思いますが、スマホの有害な部分だけを摂取し、スマホの有益な部分はほとんど蔑ろにされているのではないでしょうか。あぁ…、あなたは立派な『圧し殺し族』です。

 人間は慣れる生き物です。脳の奥の奥の方。根元的な脳の限界を超えない限り、人間はあらゆる事象に慣れて行きます。思考の圧し殺しはその典型例。最初はむず痒かった思考の圧し殺しにも、やがて慣れ、やがて何も感じなくなる。疑問に答えが出ないことは当たり前のことなのであり。そうやってモヤモヤを放置するのもまた人生。

「いやそれよりも…、そもそもモヤモヤしたくないなぁ…。」

「あっ!そうだ!何も考えなければいいんだ!」

「そしたら、モヤモヤしなくて済むぞぉ!」

 そうやって完成する一億総白痴化社会に貴方は今日も跋扈する。

 勘違いしている方がいるのなら、この辺で誤解を解いておきたいのですが、皆さんが思考を圧し殺すようになったのはスマホの登場によるものではありません。

 皆さんが思考を圧し殺すようになったのは『学校』が原因です。

 しかし『学校の授業』が原因ではありませんし、『学校の教育』が原因とも言えません。

 明確な原因は『学校の先生』です。

 もっと言うなら『学校の環境』や『学校の構造そのもの』でしょう。

 ここで結論です。皆さんが思考を圧し殺すようになったのは『学級崩壊を恐れてのこと』です。

 さてこのままでは普通に意味不明ですね。解説していきます。

 まず分かっておいて欲しいのは、日本人というのは存外優しい生き物だと言うことです。アメリカは性悪説で動いてると言いますが、日本は性善説で動いているのだと聞きます。
 性善説や性悪説というのは、要は人間の本来の性質を探求しようという試みのことなのですが、方法はシンプルで子供を観察しているにすぎません。還暦を過ぎた老人を観察して、性悪性善を見極めようとした試みは少ないのではないでしょうか。
 アメリカの子供は性悪説と言いたくなるくらい大胆で、日本の子供は性善説と言いたくなるくらい慎ましいということなのでしょう。別にこれ自体は良いわけでも悪いわけでもありません。ただし日本人は、その性善説とも見紛うほどの幼少期により、ある種の弱さを醸造しています。

 皆さんは『我を通すのが苦手』なのです。

 先程の話と整合させれば、疑問に素直に耳を傾けそれに応じるというのは、我を通す作業です。スマホ一台あれば、他人は必要ありませんがね。

 我を通せば、誰かと言い争いになるかもしれないし、喧嘩になるかもしれない。その末に訪れる治安の悪化やトラブルの責任は取りたくない。というよりそもそも、面倒事に巻き込まれたくない。そういう考え方です。

 先程『学校の教育』は問題とは言えないと言いましたが、『面倒事に巻き込まれたくない』『面倒事は起こさない方が良い』のような思想は、学校ないし日本という世界がもたらす教育の一つと言えるかもしれません。

 しかし幼少期の皆様。小学校にスマホは持ち込めません。先生の話を聞き、先生の問いに答えていきます。

 ここでトラブルが発生するのです。

『先生の言ってることがいまいち腑に落ちない』

 もし先生が、「人は殺してはいけないだろう…。であるからして○○は□□であり、~~」と話を続けたら

「ん?なんで人を殺してはいけないんだ?国家は死刑で人を殺しているではないか。国ならいいのか?法律ならいいのか?戦争は?昔の武士は?」

 という疑問が沸いてくるでしょう。少年期のことです。ここまで明瞭に言語化された思考でなくとも、似たような心模様を抱いた人は決して少なくないと思います。

 では、この疑問を先生にぶつけますか?

 勿論、突然の出来事ではありません。先生が「人は殺してはいけないだろう。」と言い出したのですから、先生to生徒という立場や状況を逸脱した場違いな行為というわけでもありません。自明かのように前提条件とされている、その条件が成立する根拠を問うだけです。何の問題もありません。

 さて、この疑問を先生に投げ掛けますか?

 多くの人は諦めてしまいます。そっと胸の内に仕舞い、誰にもバレないように破棄します。そうやって思考の圧し殺しは始まるのです。

 なぜ子供は思考を圧し殺してしまうのでしょうか?答えは簡単です。大人が答えられないことを知っているからです。

 もっと厳密に言うなら、聞いたところで

1.複雑で理解不能な多量の情報が返ってくるため、疑問が更なる疑問を呼びストレスが増大するため、それを避けたいから。

2.論点ずらしのような核心に迫らない、経典のような根拠不明瞭の解答をされてモヤモヤが残るのを知っているから。

3.世界が呼び掛ける『常識』に、同調圧力の強固な小学校という現場でメスを入れれば、たちまち異端児となり、集団から排除される可能性があるから(※)。

※集団から排除されるのは、人間がまだ猿だった頃には、そっくりそのまま死を意味していました。人間の本能は何万年も進化していないと言われているため、理性が発達していない小学生を相手に「そんなん言っても集団から排除されないし、ましてや死ぬわけないから大丈夫だよwガハハw」と、アホ面下げた大人がアドバイスしたところで、本能に刻み込まれた恐怖は子供には(というより訓練を受けた大人でも)簡単に拭えるようなものでありません。

 まとめると、世の教員というのは子供の純朴な疑問に、明瞭かつ正当で妥当な解答を用意することができません。

 「なぜ人を殺しちゃいけないの?」に対しても

 「ダメなものはダメ!」と怒鳴るか、「法律で禁止されてるから。」とズレた解答を用意するか、教師ぶって雰囲気だけ作り上げ「あのさぁ、そんなこと言ってたらお前マジでヤバいぞ。そんなことも分かんねぇのか!なぁ!」と言うのかいずれでしょう。

 いずれも無能極まりないと言う他ありませんが、子供の方が優秀なので、疑問をぶつけることを諦めてしまいました。

 先生というのは権威です。権威なのです。

 皆さんは『権威』と聞けば、このご時世ネガティブなイメージをされる方も多いかもしれません。しかし権威というのは、実は大切な側面を持っているのです。

 権威の代表は信号機です。信号機は赤になったら皆止まります。青の人たちは進むわけです。普通のことですよね。
 
 しかしここで、とある誰かが赤信号で飛び出しました。その人はなんとか難を逃れ、無事道路を渡り切ることができましたが、それを見ていた横の人が真似をして赤信号を飛び出しました。それを見ていた周囲の人間も赤信号を飛び出し、10年後、世界の誰も信号を守らなくなりましたとさ。

 信号機の権威というのは『皆が守る』、もっと言うなら『皆が守るだろう』という信仰により成り立っています。そういうものなのです。権威はクソでしょうか?

 いいえ。信号機の例のように、権威があるから機能する平和や秩序が存在するわけです。

 医者や弁護士もそうです。病院や医療は『今この目の前の医者は、気分に応じて変な処方をしたり、メスをぶん投げたりしないだろう。だってあの医師国家試験を通っているのだから。』という信仰で、法律や政府というのも同様の理由での信仰で、権威づき、秩序が保たれています。

 気分に応じて、法律を手続きなくコロコロコロコロ変えることが可能な世界だったらどうでしょう?あっという間に国は崩壊し、殺し合いが始まるでしょう。何もそれは異常なことではありません。ほんのちょっと前の時代に戻るだけです。それこそ安土桃山、戦国時代あたりに。

 話を学校に戻しましょう。先生は権威という話でしたね。学校というのは、先生という教員方による運営で成り立っています。言い換えれば、学校は先生によって成り立っているわけです。

 つまり学校の信用というのは、ほとんどその学校に所属する先生の信用と言い換えてもよく、学校の権威というのは、先生の権威のことなのです。

 日本では「学生の本分は勉強だ」と唱えられます。人殺しの何がいけないのか一つ聞けない学校の学生の本分が勉強だとは、些かお笑い事ですが、これは学校の権威に基づいた言葉であると言えます。

 学生という存在の保障は、学校の存在、つまり学校の権威により保障されているというわけです。だから「学生の本分は勉強だ」と標語になるほどに、学校で勉強が可能なことへの信頼は厚いのです。

 しかし所詮は外野の意見です。子供たちにとっては違います。子供たちは『面倒事を起こしてはいけない。』という健気な世界の教えにより、面倒事を避けます。

 面倒事を起こす方法は、

『先生の権威を失墜させること』

です。

 さて、もう分かった方も多いのではないでしょうか。

 先生の権威というのは何で成り立っていますか?

 『子供たちに物事教えられること。つまり子供たちに対して世界の先輩であることを保障し、それを惜しみ無く伝道することを宣言すること。』

 によって成り立っています。

 つまり、たかだか『人を殺してはいけない理由』一つ答えられなければ、その瞬間に先生の権威は失墜。まぁ暴力や恫喝以外で学校の運営を維持するのは難しいでしょう。おや、恫喝以外では難しい…ですか。なんだかそういう学校は多そうですけどね。大声で生徒を怒鳴ってビビらせて従わせる。うーん…素晴らしい教育方針だ。

 子供たちは本能で理解しています。権威の重要性を。日本人は性善説です。子供は特に。世界は子供に面倒事を起こすなと教えます。だから先生に際どい質問を繰り返して面倒事を起こせば、信号機の権威が失墜した世界のように、誰も先生の言うことを聞かなくなり、学級崩壊、学校崩壊もあり得るわけです。

 だから、『学級崩壊を恐れて人間は考えなくなっていく』なのです。


 さて〆に入りますが、私はこれまで『天才』を2名だけ見聞きしたことがあります。どちらも身近な人でした。そしてどちらも、他者から天才と認められていました。

 彼らは授業中に先生に際どい質問を投げ掛けたり、自由作業であまりに自由に疑問を持ったりするため、度々先生を困らせていたと言います。

 学級崩壊が起こった後の世界の想像ができないのでしょうし、『面倒事を起こすな』という世界からの暗黙のメッセージを受け取るセンサーも、先生の権威を失墜させる行為を感知するセンサーも死んでいるのだと思います。

 それでも『我を通すこと』が良いのか悪いのかは分かりません。私は天才が正解だとは思いません。天才型の人間が起こす不和は、やはり学級崩壊に繋がる何かを感じさせるわけです。だったら、思考を圧し殺すのが正しいというのか?

 決してそういうわけではありません。だからこそ『学校の先生』もしくは『学校そのもの』の構造自体が間違っているということなのです。子供の素朴な、それでいて核心に踏み込み、常識にメスを入れるような疑問を、子供が投げ掛けることができない環境が、『教育の場』などと言われているのは愚か極まりない危険思想であり、「世界を破壊したいのだ。」と言っていることと何も変わりはありません。

 皆さんに内在する思考を圧し殺す癖というのは、年齢にもよりますが、皆さんだけのせいではありません。そういう文化や環境がそうさせたのであり、そういう悪循環を生まないように、一人一人が努力する社会をまずは先決して目指していくできなのではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?