東北震災ボランティア活動に参加して生き延びた人々から我々が学んだこと
【この文章は3992文字で構成され約3分で読めます】
結論!私が生き延びた人々から我々が学んだことは、現地でお会いしたお母さんのように、一瞬の判断で生死が決まるということです。つまり普段からそのような生活にいたり生活してないとないと一瞬の判断を誤ってしまうということを深く学びました。
【はじめに】
この記事は、11年前県が募集した災害ボランティアの一員として東北の石巻に参加した記事です。
その中で1人の母親とその息子さん年老いたおばあさんに会いました。そこで話す機会があったので生死を分けたのはどんなことか聞いてみました。
この記事は、当時私が東北の大震災にボランティアに向かったバスの中から投稿し、Yahoo!でブログ賞を取った私の記事の原稿を一部修正して掲載させていただいています。
災害現場に到着した私の心境や現地の人との会話を皆さんにお伝えしたく、休憩中や移動中のバスの中で、当時使っていたガラケーの電話番号入力のボタンを文字に変換しピコピコ必死に打ちました。
当時の私の心境を再現したく誤字脱字やひらがな等は修正なく原文をなるべくそのまま掲載させていただきました。
①2011年4月○日【ボランティア登録完了!】
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先日、東北大震災のあとすぐに東北地方にボランティアにいこうと勇んで列車にのりましたが、
当時は余震で列車が突然運休、すぐになにもせず帰ってきました。とても悔しかったです。
私は過去、阪神の震災、ナホトカ号の重油流出、福井の災害、能登の震災えtc・・少しでも困っているかたのおやくにたてればと思い、いくとどなく被災地出向き、ボランティアとして参加させていただきました。
過去の私が参加した災害のボランティアで一番印象的ことは、寝たきりに近いおばあちゃんが、普段寝ている2階からおりてきて、私たちボランティアに両手をあわせて「ありがとう、ありがう・・・」と涙ながらに何度もおがんてくれたことです。
その時はまる3日間ほとんど休む暇もなく、本当にしんどいボランティア活動でした。しかしおばあちゃんのその感謝の姿をみて「ボランティアにきてよかった~~」と思いました。
さて今回の震災にあわれたかたがたには本当に心からお見舞い申し上げます。
私、一人でもなにかできることがないか毎日なやんでいます。(募金や支援物資等はささやかですが参加させていただきました。)
本日、県のHPでボランティア参加以来のページが見つかりましたので、登録をさせていただきました。
今回の県のボランティア参加予定は一人あたり3泊4日程度の参加と記載がございました。
(宿泊代金や食事等はもちろん実費だそうです!過去もみんなそうでした)
まだ、県には被災地から要請がきていないみたいですが、要請がくればすぐ出発するそうです。
私は、その日に備えて、毎日マラソンなどで体調整え準備しようと思いました。
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②【出発前日】
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たった今より、石川県の震災のボランティアバスにのって被災地にいってまいります。
何か少しでも お手伝いが出来るように毎朝4キロ走りこみをして体を鍛えていました。
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~バスの中より携帯電話にて書き込みの原文~
③【ボランティア活動1日目の朝食中】
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朝5時31分、バスに乗車して7時間後に現地到着する。
昨日、県庁を21時に出発して本日5時半に石巻市に到着。今回の派遣人数は総勢50名。
それ持参したお弁当を食べる。
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~バスの中から携帯電話にて書き込みした原文~
④【災害現場に向かうバスの途中で】
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県の東北大震災ボランティア募集がテレビやラジオホームページで募っていました。私は第ニ次募集にようやく採用されて災害ボヤボランティアに参加させていただきました。
第二次募集は夜の21時に県庁前に集合。車中泊を含み3泊4日の強硬スケジュールです。総勢50名の精鋭が県庁前をたくさん報道陣はマスコミ、関係者の人に見送られて、現地石巻市へ向かった。
事前の情報が全くないため、3泊4日分の食糧と水分を自分でリュックに入れて集まる規則でした。
4日間分?!合計で12食分の食料を確保しなくてはいけなく、まさか自分で食料を持っていかなければならないことになるなんて思ってもなかったので非常に悩みました。
現地に到着するとおそらく体力勝負だと考えました。そう考えるとパンでは力が出ないし、インスタント食品はお湯がないためおそらくだめだろう。
「12食分もなにをリュックにいれようか?」
人に聞いたり、インターネットで調べたり、本で調べたり。さんざん悩みましたが、結局結論が出ず私は干し芋を中心として、12食分用意することにしました。それと水は6リットルリュックの中に積みました。
みんなはどのような食料を持ってきたのか非常に興味深かったので、現地に着いた朝食を50人分拝見させていただきました。しかし、残念ながらみんなの非常食も参考になるものはなかったです。
おどろいたことに、現地に到着するとコンビニの一部が開店していて、なんと弁当や新聞が手に入りました。
そこでびっくりしたのは、まだ災害から行く日も経っていないのに地方の新聞が売り出していたことでした。
4ページ程度の新聞でしたが、印刷機がだめになってほとんどの地方紙がダウンしていたことと行動で知りましたが、現地石巻市にはものすごい人間の生きる力やエネルギーを感じました。
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~バスの中から携帯電話にて書き込みした原文~
⑤【災害に遭われた女性の生の声】
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死と生!それはほんの一瞬の判断であった!と
私が災害ボランティアをしている家主である主婦は
たった一人のおこさんと、自分の母であるおばあちゃんを連れてにげたてたすかった時にそうかんじたという。
私だけに本音を語ってくれました。
私たちから被災者の皆様にお声掛けをしてはいけないというルールでした。
私が一生懸命がんばっていると、その民家の家主である主婦が私に語りはじめてくれました。
私はたたじっと聞いていました。
防災サイレンがなり、迷わずに2Fにいたおばあちゃんと、息子の小学校に車で迎えに行ってすぐに山の方角にむかってたすかったといっていました。
貯金通帳や大事な写真、仏壇の位牌などもいっさいもたずに逃げたとおっしゃっていました。
私を含め、私の家族や親せき、仲間にこんな素晴らしい判断を出来る人がいるだろうか?
1分でもおくれていたら・・・・。
もし、現金や通帳だけれもポケットにいれようとかんがえたら・・・。
きっとこの家主とはお話をすることはなかったのではないかと、感じました。震災から今日で11年目、
やっと日記を書く勇気がもてました。
あまりの悲惨な状況に・・・・・・。
あとは、また次回です。すみませんm--m。
-つづくー
災害ボランティアに参加して1日がたちました。
昨日、帰る時に『災害ボランティア』後のマニアルがくばられました。そんなマニアルがあるとはしらなかったので、じっくり読みました。
なるほど・・・・・・。詳細は後日。
~つづく~
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〜1日目の活動が終わって帰った宿から〜
⑥【災害ボランティア2日目】
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昨日の作業でクタクタになった体にムチを打ち
朝7時に宿を出発。
石川県が災害ボランティアとして派遣されたところは、宮城県石巻市の海のそばの町でした。
町は壊滅的なダメージでした。
行くバスのなかで、心得というものがあり。被災者には絶対にこちらから声をかけてはいけないというおふれでした。
『がんばって!』
などときやすめにしかならないいいかんげんな言葉をかけるような状況ではとうていなかったです。
なので、今回ボランティア参加者で被災者と本音を語りあったのは私くらいかもしれません。
本日、ボランティア活動を終えて帰ってきました。
詳細はまたお伝えできたらと思います。
~つづく~
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~バスの中から書き込みした原文~
⑦【ボランティア活動2日目】
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今回の災害ボランティアでの主な活動内容は、
民家の中まで押し寄せた津波によってたまったどろ掃除です。
たたみの下にたまったヘドロがスコップではなかなかうまくとることが出来ず、全部手でかき集めました。
とても住めるような状況ではなく、家の土台もヘドロによってくさってきていました。
たたみをあげて、一枚一枚床をはいで、近くの公園に一輪車を使用して運んでいきます。
またヘドロも家の中の床のしたにもぐりこみ、手作業でへどろを外にだしていくという気のとうくなるような作業が続きました。
作業の仕上げは写真のように、悪い菌が発生してこないように、丁寧にしろいこなをまき完了!
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〜2日目をおえて宿から〜
⑧【ボランティア活動最終日】
みんなくたくたになって、最後まで力を振り絞ってボランティア活動に臨む。今日は土嚢作りをみんなでやった目標は5000個。
何とかがんばりようやく任務を終える。こっちに来たら一言も発しないと言うルールだったので誰も口をきかない。
しかし、50名のボランティアのスタッフの歩く姿はヘトヘトになっていたが、その後ろ姿を見ていると本当の仲間に感じみんなとてもかっこよかった。
ボランティアにまた必ず来ると誓ってバスに乗り込んだ。帰りのバスの家に着いてもずっとあまりの衝撃の頭がぼーっとなっていた。
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〜ボランティアが終了して帰りのバスから〜
【最後に一言】
災害から11年経ちました。しかしながら私がボランティアで見た衝撃は、本当に昨日のような鮮明に思い出されます。
私が生き延びた人々から我々が学んだことは、現地でお会いしたお母さんのように、一瞬の判断で生死が決まると言うことです。つまり普段の生活でそのような考えに至ってないと一瞬の判断を誤ってしまうことになります。
その教訓を私の人生がある限り、今を生きてる皆さんに、語り続けていこうと思っています。
震災で亡くなられた方、そのご遺族の皆様にこころからご冥福を申し上げます。