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ストリップ劇場元社長 ジョウジ川上氏の映像作品上映会「ストリップ小屋に愛を込めて」

ストリップ劇場の繁栄は幾たびとなく続いてきた。
戦後ストリップが登場したときを起点に、約10年おき位に演目の入れ替わりがあり、その都度新たなスター踊り子が登場し、話題に上がった。
1970年代後半から80年代にかけて、様々な動き、新旧交代が起こり、その真っ只中に社長をしていたのがこのジョウジ川上氏。
社長兼企画者であった氏が関わっていた伝説のストリップ劇場が、この2022年12月によみがえる!

 とはいえこれは、フィルム映像でのお話。ジョウジ川上氏が長年撮りためていた映像が一気上映されるのである。

 ジョウジ川上氏と私の接点は、私がストリップ劇場にデビューした1986年、川上氏は企画者として劇場に関わっていた。偶然にも同系列劇場であったため、何かにつけてお逢いしていた。SMショー「オサダゼミナール」のM女としてデビューした私。その系列劇場で当時、取材顔出しができるのは私だけだったので、川上氏の紹介のもと、取材を受けることもあった。

 その川上氏とストリップ劇場の関わりは、新宿で偶然見かけた従業員募集の張り紙であったという。ストリップ劇場は過酷な労働条件である。1970年代、1日13時間労働。当時はオールナイト興行も毎週あったので、土曜は18時間労働。年中無休の劇場で、従業員の休みなどほとんどない。それで月給6万円代であったという。劇場に面白みを感じなければ、とても務まらない。元々写真家を目指していた川上氏だからこそ、ステージに興味を持ち、照明もこなせていたのだろう。あっという間に支配人に昇進した。
 しかし劇場の支配人は喜べた昇進ではない。簡単に言えばパクられ役。ストリップ小屋が登場した戦後から始まったことだが、常に警察とのイタチごっこである。ところが川上氏は強運の持ち主とでもいうべきか、ギリギリのところで逮捕を免れていた。

1979年。劇場に入って四年が経ち、川上氏はかねてから考えていた「自前で企画をたて、劇場へ乗せる」というプロダクション、マネージメント業を実行に移した。
 当時、小屋へ入る踊り子はそれぞれの劇場の馴れ合い関係で成り立っている。専属踊り子を多数抱えている劇場は、売れっ子の踊り子をなかなか他所へ出さない。新人や、評判のあまり良くない踊り子が回される。なので弱小チェーン劇場は、年配の踊り子や、やる気のない踊り子でも断れない。踊り子の人数が足りなければ、小屋を開けられないのだから。
 そんなことを疎ましく思っていたのだろう。川上氏は、アングラ業界で活動をしている人たちに目を向けた。演劇や舞踏、ジャズメンといったアーティストに声をかけ、独自のショーをプロデュースし、特別興行を打ち出した。
 アングラの面々はとにかく自己表現ができる場所を欲していた。ステージにたて、ギャラがもらえるとなれば、ギャラの金額などどうでもよかった。「裸になる」ということなど大した問題ではなかったのだろう。川上氏の企画で様々な企画が生まれた。本格的な演劇もあれば、舞踏家たちがペアで踊る「アダジオショー」「SMショー」「泥レスリング」「ポラロイド」

オサダゼミナールの故長田英吉氏は「あの川上のおかげで、SMのギャラが下がってさ。こっちは困るんだよ。簡単にショーを作られたら」と、腹を立てていたっけ。
 川上氏は「オサダゼミナールがすごい人気で、ウチで入れたくてもギャラが高すぎて、とてもとても…。だから真似して作ったの。オサダ人気には叶わないけどね」と語っていた。
この点に関しては、私も川上氏の粗製乱造に難色を示していた。ダンサーたちが作るショーは確かにフレッシュだけど、SMではない。SMは体力、気力を使う。実際に緊縛され、吊られ、何かをされる。1日4ステージ、本当に体がきつい。川上氏の企画したSMペアが増えると「SM」という枠で括られ、同一化されだしてしまったのだ(舞踏家チームの多くは雰囲気でおどろおどろしく作り、縛りは軽めであった)。
 そして今でも続く「ポラロイドショー」は川上氏の発想で、1970年代ビニール本が流行っていたのを見て「誰でもカメラマンになれます」というコンセプトであった。氏、曰く「こんなに続く(流行る)とは思っていなかった」と話す。続いているというより、今では「ポラショー」しか存在していないが。

企画をしながらも数カ所の劇場の社長を務めてきたが、1980年、池袋スカイ劇場にて、社長業を引退した。ラスト興行では様々なアイディアを演出し、約1ヶ月でのべ五千人を動員したというから、その企画の面白さがよくわかる。
 その後も企画者として劇場と関わっていたが、一時全てにおいて劇場から足を洗った。もう一度写真を学ぶために大学へ再び入学したのだ。

 そしてストリップ劇場へ、大きな企画を持って帰ってきた。2003年「ザ・SMスペシャル」興行。それまでは劇場の踊り子のみで構成されていたSM興行だが、川上氏はSMクラブなどの風俗店に目を向けた。
「今(当時)SMクラブがたくさんあって繁盛しているでしょ。それぞれの看板女王様やM女が舞台に出演したら、お店の宣伝にもなるし、いいと思ってね。お店にはお客様もついているんだから」
 その考えは見事に当たり、連日大入り満員。川上氏は自らの足で各地を歩き、店舗へ掛け合い、業界の垣根を飛び越えた。さらに十日間フルで出演しなくてもいい、一日でもいいというルールも作った。
「毎日違えば毎日新しいショーが見られるんですから、お客様も飽きずに通ってもらえるでしょ」


 川上氏は新陳代謝のうまい人。古い感覚には捕らわれない。この垣根を超えたSM興行は大入りを繰り返し、新しい形として劇場も認めだした(劇場は保守的な経営方針なので)。私もこの形式の興行により、踊り子人生が延命した。自縛しかやらない私。踊り子的サービス精神に欠けている私は、半ば干されていたからだ。

そんな川上氏が撮った映像(プロデュース作品も含め)。12月17、18、19日と「シネマハウス大塚」という映画館で、1986年~2005年までの13本の作品が上映される。最初に書いた池袋スカイ劇場での「ラスト・ストリップ」(1986年)も含まれている。私が出演しているのは「さらばストリップされどストリップ屋」
(1990年)「切腹」(1990年・2005年)である。そして18日にはトークショーに参加する。
 もう二度と見られないかもしれない、賑わったストリップ小屋の映像。ぜひ見ていただきたいと思う。

参考文献/すとりっぷ小屋に愛をこめて 川上譲治(人間社文庫)


2022年12月17、18、19日プログラム


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