「オサダゼミナール」 故長田英吉氏への詫び状 前編
1987年。「オサダゼミナール」として長田氏とペアでSMショーをやり出して約半年たった頃、二人の間に口喧嘩が多くなってきた。これは今にして思えば喧嘩ではなく、単なる私のわがままである。
ショー構成は長田氏が考えたもので、私はモデルとして合わせていくのみである。多少のショー経験がある私は「飽き」がきたのだ。そしてやたら自我が強い。ショーの中で自分がこんな風だ、とみられるのは嫌だ、とか、この責めはイヤなど、文句ばかりつけた。「もっとショーを変えよう」などと言い出していた。
時には怒鳴り合いになって、解決つかぬままステージへ出たりした。
すると演技の中で突然怒りが爆発し、ハプニング的に打たれたり、お客様の態度が悪かったら、そのお客の前まで行き「面白くねぇんなら出ろ!」と怒鳴ったり、怠けている照明を怒鳴り散らしたりした。
しかし長田氏は根っから優しい人。ショーが終わると、怒鳴ったことを後悔し、「照明さんに悪いことしたな。弁当買って持って行こう」としきりと反省するのである。これも元はと言えば私のわがまま発言からのことなのに。
長田氏は私の生活のことを思って、劇場の仕事を増やしてくれた。10日間から20日間へ。こうなると家庭を持つ長田氏の生活基盤も崩れてくるし、私はお金の面では助かるが、自由でいたい心が荒れてくる。
1年ほど経つと、劇場の様子も様変わりし、AV女優がステージに登場したりと、アイドル化の矛先が見え出してきた。それと同時に「オサダゼミナール」の価値は下がっていった。理由は明白。責めパターンも同じだし、ハードでも無いし、モデルも変わらない。長田氏のようなパターン化した舞台ならば女性が新しく変わっていかなければ、飽きが来る。
ある時私はついに発言した。「劇場をやめたい」と。「オサダゼミナールのショーは、女の子が変わらなければ面白く無い。もう私でなくともいいんじゃ無いか。他の女性にするべきだ」などと話した。そして長田氏にも説得を開始した。今のショーはストリップ劇場以外でもできる。劇場を離れて独自でショーをやったらいいんじゃないか、と。
しかし氏は反論した。「役者と乞食は3日やったらやめられない」こんな言葉があるように、劇場で演っていきたいんだ、と語った。ある意味よくわかる。私だってステージに立ちたくて、今があるのだから。
その話以後長田氏は、出だしの部分を私の自由に任せた。私は自分の考えた曲を入れて見たり、衣装提案をして気分転換をしていたが、フラストレーションはどんどん積もって行く。それに閉じ込められた楽屋生活に嫌気がさしていた。長田氏とペアだったことで、個室の楽屋をもらっていたものの、「もっと自由でいたい。もっといろんなことやりたい」と、1日がただ過ぎていくことにじれったさを感じていた。
1989年8月。20日間のステージを終え、私はついに行動に出た。ハギカンチェーンの会長のところへ直談判に行ったのだ。私の話を黙って聞いていた会長は「よし、お前は一人で自縛をやれ。ギャラは35万だ。長田センセーには劇場の社長になってもらう。給料もちゃんと払う。それでお互いいいだろ。だけどこの話はお前が話して、センセーを説得しろ」
私は目の前が真っ白になった。私は劇場を辞めたかったのに逆効果であるった。ここでようやく私がバカなことをしでかしたと理解できた。つまり劇場で欲しいのは「女」なのである。女を失わないようにいい含める(一時期には社長と踊り子をくっつける、自分の女にする、なんていうことも常識としてまかり通っていた)。私は何を期待して会長のところへ話をしに行ったのだろう。悪魔に魂を売ったような気分になった。会長に話したからにはもう後へは引けない。私は踊り子として劇場に残りたかったわけでは無いのに。
この話を隠しておくことはできない。私は長田氏に会長のところへ行ったことを話し、取引のことも話した。そして「私一人が残るのは嫌だ。一緒に劇場を辞めて、他でショーをやろう。こんなところにしがみついていることはない」と話した。
黙って話を聞いていた長田氏は「そうまでいうならオサダゼミナールはもう終わりだ。引退して俺は社長をやる。だから早乙女宏美がやめることはない。俺の劇場の専属になればいい。他の劇場なんかでなくても。そして自縛をやりなさい」と話した。さらに、「今、自縛で滑車を使う人がいないから、滑車を使いなさい。使っている滑車を譲るから」とまで言ってくれた。
私は泣き出したかった。自分の浅はかなわがままがこんなおおごとになってしまった。
いや本当に泣きたかったのは長田英吉氏であったろう。
「恩を仇で返す」とはまさにこのことであった。
続く
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