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散文詩集

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#散文詩集

「物語を」

物語を聴かせてあげよう どこにでもある、でも忘れられている物語を しぃっ、黙って、黙って聴いているんだよ でもその前に、そう、 目を閉じて 耳を澄まして そうしてじっと、じっとしていてごらん まず何が聴こえる? 閉じた目に何が浮かんだ? ろうそくをつけようか、一本 白い白いろうそくを おまえは目を閉じたままでいい 閉じたまま ろうそくの炎を思い浮かべてごらん 聴こえてきただろう? 炎の燃える音が その耳をそっと今度は その両腕で抱え込んだ足の内側に乗せてごらん 聴こえてきただ

「宛名の無い」

昨夜まで在った コンクリで堰き止められた川縁の 片側の泥地は 翌夕、訪れた今、その跡形もなく 消え去っていた 水位が上がっている 雨が降ったわけでもない 乾いた風の吹く 冬の直中で そう、昨夜 在ったはずの泥地に裸足で降り立ち 体重で沈み込む足跡を幾つも残しながら 行ける所まで行った、そして 投げ捨てた 宛名のないコトバの束は 今頃何処へ沈んだのだろう このまま水位が上昇し続け ヒトの生活を守るために造られた コンクリの堰を容易に越えて 溢れ出したなら 冬の夕暮は足早に

「真夜中のサイレン」

ふきこぼれる寸前で火を止める 真夜中のミルクは 妙に甘くなる 口中に拡がるその甘さにじっと 聞き耳を立てていると、やがて ソプラノ・リコーダーの音が 遠くからやって来る 笛吹の名前を尋ねるわけでもなく、いや、 果たしてそいつが名を 持つものなのかどうかも知らないが、知りはしないが、 わたしは 近づいてくるその音に、耳を澄ます 徐々に近づいてくるその音はいつか 二重、三重に厚みを帯びて それが四重奏に変わるその時 旋律の直中を サイレン音が横切る 月も星もない、ただ掌でくるめ

「黴」

冷え切ったコーヒーはどこか 血の味がする 何処にでも売っている剃刀の刃で昨夜 ぱっくりと切り裂いた左手首の割れ目から 溢れ出、そのままのカタチで 凍りついた 赤黒い血 かさぶたにもなれず、代わりに 妙な熱をもって 隠そうとまとった袖に擦れて余計に ひりつく傷口を 黴た舌で ぺろり と撫でた その味がする わざわざ出掛けた喫茶店で もう湯気も立たず、クリーム色のカップも冷めて 体温を吸い取ってゆくだけの液体は それでもカップの端に唇を寄せて ごくり と飲めば、そのまま胃の中へと

「なにもかも話してあげる」

なにもかも話してあげる  と、 憂いで潰れた眼差しの 中年をとうに過ぎた女が云う わたしがまだ物心つかぬうちから受けてきた傷の全てを 話してあげる、なにもかも  と、 疲労にまみれた私に云う その彼女の話を聞き得る耳が、私にまだ 残っているのかどうかを尋ねもせずに、その女が 云う 彼女の口から零れてくる言葉の合間合間に 時折掠れ声が混じり、また その哀れな人生にみずから涙を零しながら  私は、 耳を塞ぎたい衝動を抑え込みながら、 何とか耳を傾けようと試みる、彼女の眼をみつめな

「喧 騒」

私を突き刺してくるのは、街の喧騒で、それは どう足掻いても私ごときに止め得るものではなく 私は磔になったまま、突き刺され続けるしかない 誰のせいでもない 何のせいでもない ただ、 街が 怒っている 街が 憤っている これほどまでに踏み付けにされ続けている我が身に それがそのまま、街をふらつき歩く私を呑み込んでゆく それだけの話で 憤っているのはだから、ヒトなどではなく 苛ついているのはだから、ヒトなんかではなく 踏み付けられ続けるしかないこの ヒトに造られてしまった街の方なの

「数え唄」

昨日の晩は もう今日の明け 時計の針が ぐるぐる廻る おかまいなしに ぐるぐる廻る だから私はいつのことやら 覚えておける 隙がない 今日は何の日 明日は何の日 今日はいつから 明日はどこから 昨日も今日も明日も明後日も みぃんな続いて 一続き 帯でも織りまひょか その糸で いったいどれだけ織れるやら ひぃふぅみぃ…… 数えていてもきりがない ひぃふぅみぃ…… やっぱり やっぱり きりがない ―――散文詩集「傾いた月~崩れゆく境界線」より

「ただの一日」

手首を切ろうとしたら もうそんな場所どこにもなかった 昨晩切った数箇所で もう左腕は 埋まってしまった 幾筋幾筋走る線は もう腕を埋め尽くしていた どうしよう どうしよう 心臓がどくどく鳴って どうしよう どうしよう 私を追い詰める 押し潰そうと襲いかかる どうしよう どうしよう どうしよう どうしよう 心臓がどくどく鳴って どんどん苦しくなってゆく その傍で 猫が泣く 開けっ放しの窓から吹き込んだ風に 乗って 飛んでゆく にゃあー んにゃあー 場所がない 場所がない どこに