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散文詩集

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#詩集

「冬の旋律」

水面一面 枯葉に埋もれ 凍りかけたプールの縁づたい 裸足の両足を爪先立たせて立つ あの子が見えるよ 飛び込めば水鏡の向こう 底を知らない冬が横たわる   一瞬の水飛沫に   戦慄いて飛び立つ鳥が、今 やがて水底まで凍りつくその前に 冬を見たかったの? 夥しい枯葉たちはちりぢりに砕け 波紋とともに泳いでゆくよ 鎮まりかえる季節に 秒針だけが その痕を刻む   今さら空を振り仰いでみても もはや   弾かれるように飛び立った鳥の影さえ見えず  誰れの耳にも届かなか

「ここに在るよ」

誰もが荷物 幾つも抱え込み 背負って 歩いてる 誰か一人だけ 重いわけじゃなく 誰か一人だけ 軽いわけじゃなく その人が抱えられる分と ちょうどつりあいがとれますように とれていますように 公園のシーソーは必ず どちらかに揺れて だから 片側だけが重たくて シーソーがしなうようなら シーソーから降りよう 一度 荷物は置きっぱなしでいい しばらくの間だもの そして 誰かを呼んで 名前を呼んで 二人分 三人分の体重でなら 軽々と 上がるかもしれない シーソーの向こう側 そ

「たとえば」

たとえばの噺だけど 明日ここからいなくなってもいいよって言われたら どうする? それとも 明日ここからいなくなるよって言われたら どうする? 遠い遠い 遠くのどこかへ 流れてゆく雲のように 流れてゆきたい と たとえば今夜 私が死んだら ふたりの猫たちのご飯は 誰が用意してくれるんだろう おなかを空かせたふたりの猫は 死んだ私の周りで ご飯をせがんで幾日も過ごすのだろうか それとも誰か見つけてくれて ふたりにご飯をあげてくれるだろうか それが心配で それだけが心配で だ

「きっと晴れる」

夕立ち あっという間もなく立ち込めた雲は わんわん泣いて わんわん泣いて きっと私が今朝早起きして ベランダに干してきた洗濯物を 今頃すっかりびしょびしょにしているんだろう どうしてそんなにいっぱいの 涙を溜めていたんだろう そんなにそんなにいっぱいの 涙を溜めていられたんだろう どくどくどくどく溢れてくる 涙はとてもあたたかくて 出掛けた喫茶店の窓から眺める アスファルトは濡れて すっかり濡れて でも夕立ちは もう涙を枯らしたのだろうか 気づいたら 止んでいる これで

「ひらひら」

刺さったガラスの破片が 紅く紅く染まってゆく 水色の波紋が 手のひらの中で泳ぐ ひらひら と きらきらと泳ぐ 硝子の破片が 明かりもない手のひらの中で ―――詩集「対岸」より

「喪失」

言葉が消えてゆく コトバがコトバじゃなくなってゆく 聴覚に異常は在りません いたって普通でしょう 偉そうなお医者さんがいくらそういったって 消えてゆくものは消えてゆくんだ あんたには分からなくても ウレシイという感情は カナシイという感情は ムナシイという感情は やがてコトバだけ一人歩きしはじめ 私から離れてゆく 私はふと立ち止まり 今この胸の中にうずくまる誰かは 一体誰だろうと首をかしげる ウレシイだったかしら カナシイだったかしら ムナシイだったのかしら よく 思い出せ

「破片」

お気に入りの硝子のコップを 思い切り投げつけた 音がしたのだろう 割れる音が 粉々に割れる音が けれど 残っていない 音は消えた 残ったのは 砕け散った破片だけで 砕け散った破片はあちこちに散らばり 思い思いの場所へと飛び散り 私の手から投げつけられた硝子のコップは もうその姿に戻らない ―――詩集「対岸」より

「真夜中の冷蔵庫」

真夜中の冷蔵庫 オレンジがかったあかりで充満している しんと静まり返った冷蔵庫に耳を澄ますと じっと耳を澄ますと 聞こえてくる 聞こえてくる ぷつぷつ ぷつぷつ と 何の音 何の音 発酵してゆく誰かの音が ぷつぷつ ぷつぷつ と 徐々に耳の内奥に 垂れ込んでくる 冷気はやがて冷気ではなくなり 部屋の温度と冷蔵庫とは 境がなくなり 境界線など何処へいったのやら 真夜中の冷蔵庫の前で 何を見つめるでもなく 両眼は何をうつすわけでもなく 真夜中の冷蔵庫 気が付けば 朝になる

「食卓」

家族の食卓は ちゃんと椅子があって 座る場所もきちんと決まっていて 今日の料理にはこのお皿 出す順番もすべて狂い無く さぁ食べましょう 食卓は すっかり華やいで 新しくおろしたテーブルクロスを汚さないようにね スープも温かいうちにどうぞ サラダをかみ砕く音 スープをすする音 時折コップに手を伸ばし 冷たい水が喉を落ちる音   それだけ? 静かに 静かに 静かぁに 食卓はただ食べるという行為のため 家族が集まって食べる行為をするために在るの そこで他の何を 交わす必要も

「夢」

夢を見ました 幸せな夢だと思います 多分 幸せだったと思います もう覚えていないけれど 私の脚が折れて 右手も折れて やがては左手も折れて ただの塊みたいに路上に転がって 気づいたら 石ころと並んで座ってた 幾組もの家族が通り過ぎてゆく 石ころと私との前を 幾人もの足音と 後ろ姿と 影が ふと見れば、折れた私の手も脚も そのゆき過ぎてゆく群れの中にいるじゃないか 身軽になった手脚は嬉々として スキップしながら、小踊りしながら やがて人込みに紛れて見えなくなった 石ころ

「迷子」

昔のことです 遠い遠い 昔のことです 誰かが呼んだ 名前を呼んだ 私に向かって 誰かの名前を 人違いかと首をかしげ そのまま歩いてゆこうとするのを 追いかけてきて 呼びかける 私ではない 誰かの名前を あなたはだあれ? 私はあなたの誰かじゃないわ あなたはだあれ? 私の名前は 私の名前は 云おうとして 声が詰まった 私の名前は 何処へいった? 私の名前が 見当たらない 誰かの名前で呼びかける 誰かが私を呼び止めて 追いかけてまで 引き止めて それでも私の名前じゃない

「サ・ヨ・ナ・ラ」

片づけましょう ほったらかしのこの部屋を いつからほったらかしていたのか もう覚えてもいないけど いつの間にやら埃があちこち 薄く積もって 積もって薄く 猫が足元にじゃれついて 思うようには進まない 片づけましょう、この部屋を 何十冊にもたまった雑記帖も 何十、何百通にもたまった手紙の山も もう必要ないのだから もう何の必要もないのだから これはいつだったか 海で拾ったただの石 裏に日付が書いてある 思い出せないその日にち それでも石には書いてある これはいつぞか届い

「恋の感情」

繰り返されてゆく仕草で 記憶に 埋め込まれてゆく 微妙な角度の違い    速度の違いで 猫の眼のように変わる 恋の色合いを 謀っている 互いに 疑い合うことが  信頼を上回り、 罵り合うことが  語らうことを押し退けてゆく頃、 終章さえ見失った 恋の姿に 気づく。 ―――詩集「十三夜」より

「葬送曲」

濡れた舌に包んだ夜を 黒猫が 齧る カリコリ と、微かな音を立てて カリコリ カリコリ と、漆黒の闇に響き渡る 足元の、朗々と流れ続ける川面を覗き込めば 途方に暮れるだけ 記憶の欠片がその片割れを求めて カリコリ と、響き続ける音色に乗って 名も無き稚魚が飛び跳ねる ひとが記憶の向こうに隠し込んだ過去たちを 数え上げるように 黒猫が夜を齧る カリコリ、という音と 名も無き稚魚の飛び跳ねる パシャリ、という水音が 響き続ける 夜が明ける、その日まで ―――詩集「十三