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散文詩集

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2024年3月の記事一覧

波紋の唄声

君が駆けて来た 嬉しい嬉しい、と こんなことがあったんだ、と 身振り手振りいっぱいにして 君が 駆けて来た 待ち合わせた川縁 今日は しゃれた喫茶店へ行く予定になってたのも忘れて うれしいの話に夢中になっている君の 横顔を眺めながら 向こう岸からいっせいに 鳩が飛び立つ 空へ 君は 忘れてるんだろう 数ヶ月前、今日君がうれしいと喜んでいるそれと 似通ったことを 君が誰かにしてたこと 寝転んで見上げれば 空は蒼く蒼く蒼く 流れる川面には 君の 伸ばした爪先が 映ってる

「物語を」

物語を聴かせてあげよう どこにでもある、でも忘れられている物語を しぃっ、黙って、黙って聴いているんだよ でもその前に、そう、 目を閉じて 耳を澄まして そうしてじっと、じっとしていてごらん まず何が聴こえる? 閉じた目に何が浮かんだ? ろうそくをつけようか、一本 白い白いろうそくを おまえは目を閉じたままでいい 閉じたまま ろうそくの炎を思い浮かべてごらん 聴こえてきただろう? 炎の燃える音が その耳をそっと今度は その両腕で抱え込んだ足の内側に乗せてごらん 聴こえてきただ

「宛名の無い」

昨夜まで在った コンクリで堰き止められた川縁の 片側の泥地は 翌夕、訪れた今、その跡形もなく 消え去っていた 水位が上がっている 雨が降ったわけでもない 乾いた風の吹く 冬の直中で そう、昨夜 在ったはずの泥地に裸足で降り立ち 体重で沈み込む足跡を幾つも残しながら 行ける所まで行った、そして 投げ捨てた 宛名のないコトバの束は 今頃何処へ沈んだのだろう このまま水位が上昇し続け ヒトの生活を守るために造られた コンクリの堰を容易に越えて 溢れ出したなら 冬の夕暮は足早に

「真夜中のサイレン」

ふきこぼれる寸前で火を止める 真夜中のミルクは 妙に甘くなる 口中に拡がるその甘さにじっと 聞き耳を立てていると、やがて ソプラノ・リコーダーの音が 遠くからやって来る 笛吹の名前を尋ねるわけでもなく、いや、 果たしてそいつが名を 持つものなのかどうかも知らないが、知りはしないが、 わたしは 近づいてくるその音に、耳を澄ます 徐々に近づいてくるその音はいつか 二重、三重に厚みを帯びて それが四重奏に変わるその時 旋律の直中を サイレン音が横切る 月も星もない、ただ掌でくるめ

「黴」

冷え切ったコーヒーはどこか 血の味がする 何処にでも売っている剃刀の刃で昨夜 ぱっくりと切り裂いた左手首の割れ目から 溢れ出、そのままのカタチで 凍りついた 赤黒い血 かさぶたにもなれず、代わりに 妙な熱をもって 隠そうとまとった袖に擦れて余計に ひりつく傷口を 黴た舌で ぺろり と撫でた その味がする わざわざ出掛けた喫茶店で もう湯気も立たず、クリーム色のカップも冷めて 体温を吸い取ってゆくだけの液体は それでもカップの端に唇を寄せて ごくり と飲めば、そのまま胃の中へと

「なにもかも話してあげる」

なにもかも話してあげる  と、 憂いで潰れた眼差しの 中年をとうに過ぎた女が云う わたしがまだ物心つかぬうちから受けてきた傷の全てを 話してあげる、なにもかも  と、 疲労にまみれた私に云う その彼女の話を聞き得る耳が、私にまだ 残っているのかどうかを尋ねもせずに、その女が 云う 彼女の口から零れてくる言葉の合間合間に 時折掠れ声が混じり、また その哀れな人生にみずから涙を零しながら  私は、 耳を塞ぎたい衝動を抑え込みながら、 何とか耳を傾けようと試みる、彼女の眼をみつめな