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たくさんのやさしさをくれた、あなたへ。

#やさしさに救われて

いまのわたしがまさに一番書きたかったテーマ。なぜなら今日までたくさんの、両手では抱えきれないくらいのやさしさをいただいてきたから。そしていままでいただいてきたやさしさのありがたさに、最近になってようやく気がついたから。だから今日は、わたしにたくさんのやさしさを与えてくれたひとたちに向けて、感謝の気持ちを書いていこうと思います。

そもそも振り返ってみると、わたし自身本当の意味で感謝の気持ちを持てない人間でした。もちろんなにかしてもらったときにはうわ〜ありがとう…!って湧き出る感情もありました。でも正直その言葉や感情に100%の気持ちが乗っていない感覚がたまにあって、そして恥ずかしい話「なにかしてもらうことが当たり前」、というような感覚もどこかでありました。やさしさをもらえるのは決して当たり前じゃないのに、そのひとがわたしのためを思ってなにかをしてくれたのに、ひとからもらったそのやさしさを軽く受け止め、軽く流していた自分がいたんです。心の底から感謝の気持ちを持つ、っていうことができない人間だったんです。しかもこちらからなにかをお返ししようなんて思いもあまり生まれなくて、だからいつも相手になにかしてもらうことばかりで。そんな人間でした。

でも最近体調とメンタルをくずし仕事を休職したとき、いままでどれだけのやさしさを軽視してきたんだろう、と気がついたんです。最近になってようやく、本当の意味でひとのやさしさが心に沁みるようになり、やさしさについて考えるようになり、心の底からありがとうって思えることが増えたんです。

いまもまだ休職しているけれど、今日までわたしにたくさんのやさしさを与えてくれたのは、そしてわたしをなにより一番に支えてくれたのは母です。

もういい歳なのにまだのうのうと実家にいさせてもらって、仕事にも行けなくなっていい歳して収入もなくなったのに、「いまはゆっくりする時期だから」と言ってなにも責めず、なにも怒らず、ただただ家にいさせてもらっている毎日。身体のこと、健康のことを考えて、朝ごはんと夜ごはんを毎日毎日手作りして作ってくれること。不安感におそわれてどうしようもなくなったときに、年甲斐もなく母の後ろをうろうろして「大丈夫かな」と毎日何度も何度もたずねるわたし。それに対して嫌な顔をせず、何度も何度も根気強く「大丈夫だよ。保証してあげる」と言ってくれること。わたしが逆の立場だったら絶対に「もう何回も言ってるでしょ!大丈夫だから!」とイライラしてしまうはずなのに、母は本当に長い時間をかけて、何回も何回も同じ言葉を、「大丈夫だよ」「心配しなくて大丈夫だから」「いまは不安だったり体の調子が悪くて当たり前だから心配しなくていいし、すこしずつ、ちょっとずつ時間をかけて良くなっていくから」と言ってくれました。そして、「不安なことはもう全部言ったほうがいいよ。溜め込むのはよくないし、寄り添うってもう決めたから」。そう言ってくれたこと。そうやっていつもわたしのことを考えてくれてること。そのやさしさに、本当に本当に救われました。

そして気分転換のお出かけにも連れて行ってくれました。

「今日はちょっとモーニングでも食べに行く?」と誘ってくれて、すこし車を走らせてお気に入りのレストランで一緒にモーニングを食べたりもしました。ご飯はもちろんおいしいし、平日の午前中なので店内も穏やかな雰囲気でかつ店員さんも落ち着いていて、心休まる大好きな時間のひとつでした。

他にも、「いまはとにかく好きなことをして過ごすのがいいよ」「なにか自分にとってお守りになるようなものを探して買ってみるのもいいかもね」と言って、わたしが大好きな100円ショップに連れて行ってくれたり、本屋さんにも連れて行ってくれたりしました。それも何回も、何回も。ちょっと車に長く乗って遠出したりもして。気持ちが軽くなるから、って。

それでもお店の駐車場に着いた途端、もうすべてがどうでもよくなって自暴自棄みたいな気持ちになってしまったり、不安におそわれてしまうこともかなりあって。せっかくお店まで連れてきてくれたのに家の駐車場まで引き返してきて、小さい子どもみたいな態度をとるわたしに車の中でまた根気強く大丈夫だよって言ってくれて、お話もしてくれて、それでわたしもすこし冷静になって。「ちょっと落ち着いたならやっぱり買い物して気分転換する?」と言ってくれて、帰ってきた道をもう一度戻ってお店まで車を走らせてくれたこともありました。

他にもここには書ききれないくらいたくさんのことをしてくれたし、お守りになるような、そして宝物になるような言葉をたくさんたくさんかけてくれました。絶対に忘れたくないので、それはこっそりと日記帳やメモ帳に書きとめています。

母がいなかったら、きっとわたしは不安で生きていけなかったかもしれません。毎日毎日不安におびえながら、一日なにもできずにベッドの上で泣きながら過ごす日々をずっと送っていたかもしれない。もちろんいまもひどい不安におそわれることはあるけれど、そのたびに母が「大丈夫」「不安な気持ちになったらまたいつでも言いにおいで」と言ってくれるから、不安のなかにも安心感を持って生きていけるんです。
だから母が言ってくれる「大丈夫」という言葉がいままでもこれからもずっとずっとお守りだし、わたしが今日まで生きてこられた理由だと心から思います。

もしもわたしがひとりぼっちだったら、もしも母のやさしさや言葉がなかったら、わたしは本当に悪いほうへ悪いほうへと行っていたかもしれない。でも母がいてくれたから、いまこうして起き上がって椅子に座って文章を書いたり、これからのことを考えたりすることができるようになったんです。

だからこそ。母に対する罪悪感も大きくて。
正直こうしてメンタルをくずすまで、母に対してきちんと接してこなかったんです。
ひととして情けないし最低人間だけど、母のことを心から大切に思って気遣うことはしてこなかった。同年代の他の人はもうとっくに素敵な親孝行をしてるのに、わたしも親孝行するべき年齢なのに、わたしはただただ自分のことしか考えず好き勝手に生きてきて。なのにいざメンタルをくずしたら母のお世話に頼りっぱなしで。ご飯も作れないし作らない、洗い物も洗濯物も母が全部やってくれる。情けなさすぎるし、本当にだめすぎる娘です。たぶん母も心のどこかでわたしに対してネガティブな気持ちを持ってると思うし、持っていて当たり前だと思います。それくらい母に対して自己中心的な態度をとっていたし、母のことを思いやってこなかったから。母に対してなにかしてあげるなんてことはなくて、伝えるべき言葉もちゃんと伝えてこなかったから。ただただ小学生のときとなにも変わらず、甘えてるだけだから。

それなのに母はネガティブな気持ちよりもやさしさが上回って、わたしのことを「大切だから」と言ってくれる。最近になってようやく気がついたけれど、母はものすごく大きくて深いやさしさを持つひとなんだ、って思いました。だっていくら娘だからって、こんなに好き勝手、自己中すぎる接し方や態度、生活をされてたら見切りをつけられてもおかしくない。なのにただひたすらわたしのことを第一に、やさしく考えてくれる。なんでこんなにやさしいんだろう。本当にそう思います。

迷惑しかかけてこなかったわたしがいまさらお礼を言っても「なんだそれ」って普通の人間ならそう思うし、それが当たり前。だからお礼を言うのは正直自己満足なだけな気がして気が引けるし、お礼を言ってからこそ、それを言葉だけで終わらすのではなく態度や行動で伝えていかないといけない。十分承知しています。それでも、感謝の気持ちはやっぱりたくさんあって、母にたくさん助けてもらってこうして生きてこられたからやっぱり言わせてもらいたいです。
たくさん支えてくれて、本当にありがとう。

いままで全然親孝行できなかったし、いまも人間性がだめだめなわたしになにか大層なことができるわけがないけれど、でも今回母のやさしさに改めて触れて、これからは絶対に母のことは大切にしようと誓いました。

なにか困ったことがあったらおなじように絶対に助けられるように、感謝の気持ちをちゃんと言葉にして伝えられるように。そして母を守るためにも、ちゃんとした大人、人間にならないといけないと思いました。

もう一度言ってしまうけれど、本当にありがとう。

それからおなじ時期に、職場でもたくさんのやさしさをいただきました。

休職の報告をしに行ったときに、その場にいた皆さん全員がやさしく出迎えてくれ、そしてやさしく声をかけてくださいました。急な休職で迷惑をかけたのにも関わらず、「大丈夫だよ」「ゆっくり休むんだよ」と言いながら肩をぽんっと叩いてくれて。それで肩の力が抜けました。お話もたくさんしてくださいました。

上司も色々な言葉をかけてくださり、「わたしはもちろん、スタッフみんなでサポートしますから」と言ってくださいました。
以前の上司も、状況を知ってお忙しい中心配のメールをくださいました。そのときはまだ特に孤独感が強い時期だったので、そのメールを読んですごく救われましたし、うれしかったです。本当にありがとうございます。

改めて、本当に恵まれた環境にいさせてもらってるんだなと実感しました。こんなにも人間関係がいい職場はもう見つからないんじゃないかって心の底から思うほど、皆さんいい人しかいないんです。なんでこんなにいい人しかいないんだろう??と働き始めてから今日までずーーーっと思うほどに、本当に本当にいい人しかいないんです。そのなかにいさせていただいて感謝です…。

それから職場のなかでも特にわたしを支えてくれた、ううん、いまも支えてもらっている、あるひとりのスタッフさん。お名前はもちろん出せないので、ここではAさんと書かせてもらいます。

Aさんはわたしとおなじ読書好きということで、休職する前から仕事の合間によく本の話をしたり、他にもおなじ趣味があったのでその話をしたりして仲良くさせてもらっている方でした。

そんなときにわたしがお休みすることになり、そこからAさんは心配のラインをくれて、そこからたくさんの、本当に本当にたくさんのやさしい言葉をかけてくれました。母とおなじく、ここには書ききれないくらい、本当にたくさんの言葉を。その言葉にわたしは本当に救われたし、「もう自分自身も人生もどうでもいいや」ってなっていたときも、その気持ちはAさんには伝えてないはずなのに、そのときのわたしに必要な言葉をかけてくれたりしました。その言葉がなかったら、「もうどうでもいいや」の気持ちのまままた泥沼にはまっていたかもしれません。

不思議でもなんでもないけれど、Aさんと話すと気持ちが安心するし、ちゃんとした道に戻してもらえるような、そんな感覚があるんです。それはAさんがほんっっっっっとにやさしいひとで、目の前のひとのことを心から思いやれるひとだから。仏様ですか…?と問うてしまいたくなるくらい、思いやりにあふれた方なんです。職場でも、「いやAさんはほんとすごいよね…!」ってその場にいなくてもみんなでそうお話するくらい、みんなも尊敬するほどのお人柄なんです。だからわたしは、そのAさんの人間性からあふれるやさしさや温かい言葉にたくさん助けてもらいました。ううん、いまもお話しながら色々と助けてもらっています。だからこそ、Aさんが職場にいなかったらわたしはどうなっていたのかな…と思ってしまいます。

たくさん助けていただいて、本当にありがとうございます。

そして、いま通っている心療内科の先生、カウンセラーの先生、そして受付の方にも本当に助けられています。

心療内科の先生はとても穏やかでやさしくて、いつも長い時間かけてお話を聴いてくださいます。お人柄が本当に素敵すぎて、じつは心のなかでひっそりと憧れの気持ちを抱いてしまうくらい、お話していてほっとする先生。

わたしが不安におそわれて半ば半泣きになりながら先生に相談したときも、決して否定したり嫌なお顔したりせず、いつも穏やかな笑顔で答えてくださったり、不安を打ち消してくださるような言葉をかけてくださいました。
Aさんとおなじように、先生とお話しているとよどんでいた気持ちがちゃんとした場所に戻る感覚があったり、たまにひとり気持ちが落ち込んだときもぱっと先生のお顔が浮かんで、「はっ、沼にはまっちゃだめだ。先生ときちんとお話できる人間でいなきゃ」って思うんです。
だからわたしのメンターのような先生です。

先生の診療の他に、カウンセラーの先生にもたくさんお話を聴いていただいています。

カウンセラーの先生も毎回やさしく穏やかに話を聴いてくださり、そしていつもわたしのことを肯定してくださり、本当に感謝しています。
いままでだれにも言えなかったことを初めて話して気持ちが楽になったり、不安な気持ちを正直に話して一緒に解決策を考えてくださったり。不安な気持ちを知ってくれてるひとがいる、それだけで世界からひとりぼっちになってしまったような感覚から抜け出すことができました。

そして受付の方。

じつは以前一度カウンセリング中に涙が止まらなくなり、すぐには帰れずしばらく空いているお部屋にいさせてもらったことがあるのですが、そのときにお水を持ってきてくださったり、「寒くないですか?大丈夫?」とお声がけをしてくださったりしました。
そして次の受診日にお詫びした際には、「もうほんっっと!全然気になさらなくていいんですよ!ここではわがままになっていいんです」と笑顔で言ってくださって。その日の診察終わりにも、「rinさんのペースで大丈夫ですからね」とやさしく話しかけてくださいました。

もう病院のみなさんがやさしくて、その空間自体がとてもやさしくて居心地が良くて、感謝の気持ちでいっぱいです。
なのでこの場をお借りして改めて伝えさせてください。いつも本当にありがとうございます。

母や職場の方々、Aさん、心療内科の先生、カウンセラーの先生、受付の方…。

こんなにも助けてくださるひとがいて、支えてくださるひとがいて、わたしは本当に恵まれているなと改めて思いました。

「支えてくれるひとってね、意外といるんですよ」。

職場の上司がそう言ってくださったときに初めて、「ああ、そうか」と気がつきました。

ずっとひとりぼっちだと思っていたわたし。

友だちも多くないというか職場のAさんともうひとりですが、友だちっていう枠組みじゃなくても、助けてくれるひと、わたしの周りにいて支えてくれるひとはたくさんいるんだと気がついたら心がすっと軽くなりました。

「一緒に仕事してるひとたちは、みんな間接的に助け合って支え合ってる」。休職したてのときAさんがそう言ってくれたように、わたしが気がつかなかっただけで、仕事を通してじつはたくさん支えてもらっていたんだなと思いました。本当に感謝です。

他にもたくさんのやさしさに助けられてきました。それは社会的な意味で。これはわたしだけが特別受け取ってるわけではなく、社会で生きてるみんながそうだと思います。

すこし余談になってしまいますが、じつはいま「感謝したことメモ」というものを毎日夜に書くようにしているんです。それは、その日あった感謝したいことを3つメモに残して大切に箱にしまっておく、というもの。そこには母やAさん、周りの方々にいただいたやさしさへの感謝の気持ちはもちろん、日常であったちいさな幸せや、見ず知らずの方からいただいたやさしさのことも書き残しています。

たとえば「不安で気分が落ち着かなかったけどどうぶつの森をしたら癒やされてホッとした」とか、「読みたかった本が読めてその本にすごく救われた」とか、「買い物したときの店員さんの笑顔で心が和んだ」とか…。
そのようなことを毎日メモに書いて大切に保管しています。ちょうどこの間久々に見返してみたら結構溜まっていて、改めて「ああ、毎日こんなに色んなやさしさをもらってきたんだな。ありがたいな」ってしみじみと感じました。ちなみにかわいいメモ帳に一枚一枚書いてるのですが、これも母が買い物に連れて行ってくれたときに買ったもの。母が車を走らせてお店まで連れて行ってくれたから、こんなかわいいメモ帳に書けるんだなあ、後から読んだら絶対宝物になるだろうなあ、連れて行ってくれてありがとう…って思うくらい、感謝です。



それから。

そんなふうにやさしさについて考えると同時に、いままで与えてくれたやさしさをどれだけ自分の手から離してしまったんだろう、とも考えてしまいます。どれだけのやさしさを見逃し、ないがしろにしてきたんだろうと。人を大切にしてこなかったんだろうと。

もういまさら遅いけれど、こんなこと言う資格が一切ないのもわかっているけど、一年半ほど前に付き合っていた彼氏も、たくさんやさしさをくれたのに最後はわたしの勝手な振る舞いで別れてしまいました。
至らない部分だらけだったのに、いま自分でも振り返るとかなり迷惑をかけていて言いたいこともたくさんあったはずなのに、2年間やさしくそばにいてくれて、応援する言葉をかけてくれて、ずっと味方でいてくれて。さっき書いたどうぶつの森も、高いものなのに彼がプレゼントしてくれたもので、いまでも不安なときや夜眠れないときはスイッチを入れてそのどうぶつの森に何度も助けてもらってるんです。なのに、そうやってたくさんくれたやさしさを最後は自分の手で切ってしまった。どうしようもない人間だけど、その最低さにようやく気がついて。あれだけたくさんのことをしてくれたのに、それをないがしろにした自分。せっかくつないでもらった縁を自分から放してしまった。もう遅いけど、なにをしていたんだろうか。いまさらここで謝ってももうどうしようもないけれど、本当にごめんなさい。



ひとのやさしさに気がつくのが、そして心から実感するのがあまりにも遅すぎました。人として一番大切にしなければいけないことを持っていないせいで、ないがしろにしていたせいで、わたしのそばにいて味方でいてくれて、大切にしてくれていたひとのことを大切にできませんでした。本当にごめんなさい。本当はもう一度会って謝りたいけどそれがどれだけ自分勝手な振る舞いなのかもわかっています。


もうおなじ間違いをしないためには、もうそのやさしさをないがしろにせず、与えてくれたやさしさにちゃんと気がついて受け取って感謝して、そしてそのひとに恩返しができる人間に絶対ならないといけない。そう思いました。


正直すこし前までは、一番そばにいてくれるひとよりも、もっと見知らぬだれか、遠い他人を助けたいしやさしくしてあげたい、と思っていました。もう「してあげたい」って思ってる時点ですこしアウトですが…。純度100%の気持ちじゃないので。
でもそのときのわたしは、そばにいてくれるひとのことはないがしろにしてるくせに、だれか見ず知らずの他人のためには愛想を振りまいてやさしさを与えたいと。要はそう考えていたんです。実際、仕事中のほうが人当たりのいい人間になっていました。それこそ人が変わったように笑顔も愛想もめちゃめちゃ振りまいていました。なのに、家に帰るとプツンと糸が切れて母とかには無愛想になっていて。本当に人としてだめですね。

でもいまは、もうそういうのはやめようって思いました。もちろん無愛想にお仕事するとかそういうことではまったくありません。
そうじゃなくて、まずはわたしのまわりにいてくれるひと、わたしのことを大切に思ってくれるひと、わたしと関わってくれてるひと、そしてわたし自身のことをなにより一番に大切にしていきたい。そう思えるようになったんです。わたしの周囲にいてくれるひとを一番に大切にする。そういう意味です。

巷でよくきく言葉に、「身近なひとを大切にできないひとに他人は救えない」というのがあります。そのとおりだな、と。どうして身近なひとを大切にせず、他人には良い顔をしようとするのか。順番が明らかに逆じゃないのか、と。もちろんそれが絶対によくないことだ、とは思いません。だってさっきも書いたように、社会的な意味でも、赤の他人であるわたしにも色んなひとがやさしさを向けてくれたおかげで、心がほっとした瞬間、救われた瞬間がたくさんあるから。

数多くのひとが制作に関わったどうぶつの森というゲームがあったからこそそのときまで感じていた不安が和らいだし、作家さんが一生懸命書いた本を読めたからこそ救われたわたしがいたし、お気に入りのボディクリームを買いに行ったときに店員さんが丁寧に袋に包んでニコッとした笑顔で渡してくれたからこそ、その商品が特別なお守りのように感じられたんです。

相手からしたらわたしは赤の他人だし認識すらされてないこともたくさんあるけれど、こんなふうにわたしと関わりのないひとからいただいたやさしさにちょっとずつ助けられたのも事実です。だからわたしも、社会に対してそういうやさしさを向けられるひとでいたいし、そういうきれいな人間性をもったひとでありたい。

でも、それにはまずは自分の周りにいてくれるひとをきちんと大切にして、それこそ母のように、「わたしはあなたのことを大切に思ってるよ」ってことをちゃんと相手に伝わるように態度で示して、伝えたいことはちゃんと言葉にして、それで周りのひとを幸せにできた瞬間に初めて、そのやさしさをだれか他人に与えていったらいいと思うんです。
だって、自分のことを一番に考えてくれるひと、支えてくれるひとをほったらかしにするのはひととしてちがうとようやく気がついたから。
それに、母のように、Aさんのように、身近なひとを大切にできるひとってそれだけで素敵だなと見ていて思うんです。こんなにやさしいひとが世の中にいるんだ、ってわかるだけでも、世界がすごく安心したものに見えるから。不安底ないまの時代、それってすごく大きいし大げさではなく誰かにとっての希望だと思うんです。

だから、本当に大切にするべきひとを大切にできない人間にはもうならない。そう誓いました。



…長くなってしまいました。

でも今回ほどに書きたいテーマはなかったので、これだけは思う存分書かせていただきました。

今回たくさんのやさしさに触れさせてもらってわかったこと、考えたことは、やさしさは決して万全ではないけれど、それでも人の命を救うくらいの力があるということ。そして、もしかしたらやさしさ以上に、だれかの心を癒やしたり温めたり立ち直らせてくれるものはないのかもしれないということ。

事実わたしを絶望や不安の沼から助けてくれたのは、周りのひとからいただいたやさしさでした。そのやさしさがなかったら、正直今ごろ自暴自棄になってどうなっていたかわかりません。ひとりぼっちで泣いているときに横にだれもいないあの孤独感、苦しさ、悲しさ、つらさ、絶望感は本当に形容し難いから。あの絶望感はひとを簡単にどん底まで突き落としてしまうほどつらいものだからこそ、そのときにやさしくそばにいて話しかけてくれたひとを大切にしなきゃいけない。そう思うんです。

だからこれからは、わたしのまわり、そばにいてくれるひとのことを一番に考えて、一番に大切にして生きていきたいと思います。
そしてその大切なひとともっともっと幸せな時間を過ごしていい関係を築けるようになったら、今度はいままでいただいたたくさんのやさしさを社会に返せる人間になりたいと、そう思っています。そうなるためには自分自身をものすごく高めなきゃいけないけれど、最終的には社会にも恩返しすることができるそんな人間になれるよう、日々がんばっていきたいと思います。


いつも見返すノートにも決意表明として



長くなってしまいましたが、最後に、やさしさをくれたすべての方へもう一度伝えさせてください。

やさしさを与えてくださって、本当にありがとうございます。

最後までお読みいただきありがとうございます✽ふと思い出したときにまた立ち寄っていただけるとうれしいです。