【お蔵入り短編小説】タイトルなし(思い付かず(笑))
私はそのとき、恋をしていた。
夫のそれとは全く違う、瑞々しくて艶のある背中に手を回しながら、ぼんやり考える。
髪を撫でられて、昨日染めたばかりなのがわからなければいい、と願った。
直人と会う日は、入念にクリームを塗り、高価な粉をはたき、目元の影をコンシーラーで消す。
食事にいく店も、薄暗くて肌の衰えが目立たない席を選んでいるのを、彼は気づいているだろうか。
高い金を遣っても、自分を欲しがるあわれな年増女だと思ってるだろうか。
まったく自然体とは言えない私と、なにも隠ごとをしない直人。
同じ職場に彼女もいると、けろっと言ってしまうのは若さか、それとも計算なのか。
「杏子さんはいつも綺麗だね」
耳元に舌を這わせながら、直人の長い睫毛が揺れる。
しなやかでたくましい腕、胸から腰にかけての曲線を私は指でなぞる。美しい彫刻のような、無駄のない稜線。
「やっぱり俺、杏子さんとがいちばんいいわ」
私の中で果てた後の直人が、横で仰向けになる。かすかに汗の匂いがする。私は彼の胸に頬を寄せる。
ああ。
このひとことを聞くために私は生きている。
わがままな夫の世話も、うまくいかない子育ても、この一言のためには我慢できた。
そしてできる限り、彼の表情を記憶する。
いつでも目蓋の奥で再生できるように。
つらい現実と置き換えることができるように。
そうやって、私は生きていた。
いくつか、季節が過ぎた。
味気ない毎日は、直人との1日のためにあった。
「来月、異動になったんだ。だからもう会えないかもしれない」
シャツのボタンを閉めながら、直人は事も無げに言う。
このところ、お酒も食事もなしでホテルで待ち合わせしていたのはそれか。
「どこへ?」
どうしよう。声がかすれてうまく出ない。
「北のほう」
「北って?」
「北は北だよ。遠いとこ」
ベルトをわざとカチャカチャといわせているのは、苛つきの表現だろう。
大人なんだからさ、ぐずぐず言うなよ。最初からそういうことだったろ。
それなりに楽しんだからいいだろ?
そう言いたげだ。
「杏子さんは素敵だったよ」
にっこりと直人が笑う。
素敵だったよ。
過去形で語られたことに、今さら気づく。
ふと見ると、大きな鏡の中にみすぼらしい女がいる。男に捨てられた間抜けな女。
いくら金をかけても、身体に刻まれた年月をごまかせない女。
貧相な乳が痛々しい。
おやりなさい。しかたないでしょう。
鏡の女が話しかけてくる。
やめて、私に話しかけないで。あんたの顔なんて見たくない。
ほら、ちゃんと言いたいこと言うのよ。
行かないで。
もう会えないの?どこに行くの?
私をおいて行かないで。
誰と行くの?
喉がからからで言葉が出てこない。
バカねえ。すがることもできないの?
やめてやめてやめて。
うるさいうるさいうるさい。
「ごめんね」
直人があわれむように言う。
仕方ないわよ。
何が?何がよ。
こいつが悪いのよ、仕方ないわ。
鏡の中の女がにやりと笑う。やめて、私の中に入らないで。
出ていって。
ひとり占めしたいんでしょう。
使いなさいよ。
あんた、いつも持ってきてるじゃないの。
腕が動き、私はバッグを手元に引き寄せる。
ナイフがそこにあるのは知っている。
いつ使うのか自分でもわからなかったけど。
タオルにくるんである、
硬く冷たい感触に触れた。
仕方ないのよ。だから、おやりなさい。
背を向けた直人の腕に触れ、私は指をからませる。
そうだ、もう仕方ない。
「最後にもいちど…ね?」
甘い笑顔を作りながら、直人が振り返る。上手にため息をごまかしながら。
やれやれ、最後のご奉仕か、と言わんばかりに。
仕方ない。
私はナイフを直人の腹に突き立てる。
私の顔に鮮血がほとばしった。
うふふ、あったかい。
冷たい床で目を見開いたまま、口をぱくぱくさせる直人。
あらあらあら。どこを見ているのかしら。私をちゃんと見て。
「こんの…クソ…ババア…がっ…」
嫌ねえ、口が悪いわ。
私はそんな直人に微笑みかえす。鏡の女が満足そうに頷いて、闇に消える。
そう、仕方ないのだ。
だって私は、恋をしているのだから。
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夏ピリカの審査あと、一気に書いた小説です。読めば書きたくなるんですねえ。
あまりの稚拙さと凡庸さにお蔵入りさせてましたが、不憫なので出してあげることにしました。
誰もが考え付かない展開!!
息をつかせぬほど引き込む力!
共感をよぶ魅力的なキャラクター。
やはりこれはポッと書くだけじゃだめですね。
よし、下書きがひとつ成仏できました。ありがとうございました!
ピリカグランプリの賞金に充てさせていただきます。 お気持ち、ありがとうございます!