安全ピン、ハンガー、その次は?

〈1〉

地球の海が牡蠣で埋まった、というニューズを聞いたとき、その意味するところを本当に理解していたのは、おれたちのような三等級以下の市民の中にはほとんどいなかったように思う。

大昔の人類がそこで暮らしていたという地球は、現在の人類が暮らしている殖民衛星に、資源――主に食糧だ。家畜や植物はともかく、水産、それも海産物となると、殖民衛星で生産するのは難しい――を供給するためのプラントになっていて、その生産傾向は完全なコントロール下にある。今回の場合はそれこそが問題で、プランニングが狂ったのか、入力ミスが重なったのかはわからないが、とにかく高密度のクローニングと、十分な成長促進剤の投与が指示され、一晩の間に、そうなるべくして、海が牡蠣で埋まってしまった、ということらしい。

さっきも言ったように、おれたち三等以下の市民たちは、特にこの事態を深刻に捉えたりはしなかった。せいぜいが、『牡蠣ね、あのグニョグニョ、ビラビラしたやつ。あれがちょっとばかり多く食卓に出てくるのかな?』といった具合だ。そこからの反応は、概ね、二つに分かれた――『やったぜ、あれが好物なんだ』、あるいは、『おぇっ!勘弁してくれよ』――ものの、どっちにしても、自分たちの夕食以上のことを考えたやつはいなかったと言っていい。

二等より上の市民は、もう少し真剣だった。食料省と衛生省の連中は、気の毒にも、真っ青になってブルブル震えていたらしい。後で聞いたところによれば、つまり、こういうことだ。大昔の地球の海で、局地的、また自然発生的に、"顕微鏡で見るしかないほど小さな、ゴミみたいなプランクトン"が、"水の色が変わって見える程度に発生"した結果、周辺のほかの魚がぜんぶ死んでしまうようなことがあった、と。その理由は酸欠だというんだ、信じられるか?それじゃ、"大人の手にぴったりくる大きさの貝"が、"海の水、全部を埋め尽くすくらい発生"したら?

この話を聞いて、おれはフームと唸って腕組みしたもんだが、食料省の偉いやつはもっと、ずっとタフだった。そいつは報告を聞くや否や、地球の海の魚を全部(当分の間は)あきらめて、さっさと冷凍ビームの照射を命令したんだ。海の水を、まるごと標的にしてな。それでも、すべて問題なしとはいかなかった。なにしろ、海を埋め尽くすだけの量の牡蠣だもんな。培養しているそばから酸欠で死んで、それが腐ってガスを出し、となりの牡蠣が酸欠で死ぬ。そんな調子だから、全部を食用にできるように生きたまま冷凍するってわけにはいかなかったし、冷凍ビームを加減や調整してるヒマもなかったもんだから、生きてて食える牡蠣なのか、死んで腐った牡蠣なのかは、解凍するまでわからない、ということになってしまった。そりゃ、スキャンして組成を調べたっていいが、食うか捨てるかを決めるだけのことだし、溶かせばわかることに、そんな手間をかけても仕方がない。しかも、悪い冗談みたいな量の牡蠣は、同じ重さの、殖民衛星の空気よりもずっと、水よりもちょっぴり安い。心配なら、凍ったまま捨てればいいんだ。

それに、この大胆な措置には、いい面もあった。牡蠣以外の魚や貝は、全部死んで腐ったからな。むちゃくちゃな量の腐敗ガスが、陸地の空気を深刻に汚してしまう前に、その発生と拡散を抑え込んで、そのうえ、腐った魚を宇宙に放り捨てる筋道をつけたことは、十分役に立った。


〈2〉

そんなわけで、おれたちの想像した通りに、これまではどちらかといえばマイナーな食材だった牡蠣が、どこの食卓にものぼるようになった。頻度のほうはおれたちの想像をはるかに超えて、毎食のメインが牡蠣で当たり前になった。解凍したままの生で、茹でて、焼いて、蒸して、揚げて、煮込んで、刻んで、潰して。ありとあらゆる方法で調理された牡蠣が、どこの家庭でも、毎度の食事に顔を出した。

当然、ほかの海産物の値段はものすごく上がった。海ってのは培養槽であるのと同時に保管庫でもあって、出荷の直前まで泳がせておく仕組みだったもんだから、問題の一日に流通経路に乗っていたもの――と、ごく少量の、地球以外で生産された"海産物"。実験目的で作られたやつだ――以外の商品はなくなってしまったんだ。そのうえ、海はガチガチに凍った牡蠣と魚(の死体)、そして腐敗ガスで埋まっていて、またプラントとして使うには、まずそれらを取り除いてやらなきゃならない。その次は補充だ。水と、塩と、鉱物と、細菌や生物。それらを十分な量、投入するんだが、そこでちょっと考えてみてくれ。あんたがイカを出荷する業者で…隣の家は、タコを出荷する仕事をしていたなら?この機会に、おたがいの事業を拡張しようと、そう考えるんじゃないだろうか。まあ、実際にあんたと、隣のタコおじさんがどう考えるかはともかくとしても、地球の海で商売をしているやつらは、だいたいみんながそう考えたらしい。もちろん、食糧省に対して保障やらなんやら、そういう請求をしたあとでな。そういうわけだから、地球の海の再生計画は、なかなか進まなかった。

それに、だ。タフでクールな冷凍措置ではあったが、それ自体にもちょっとした問題があった。つまり、地球が寒くなってしまったのだ。もちろん、おれたちが住んでいるわけでもないし、なんなら服を余計に一枚着るくらいのことは全然かまわないが、そこで飼われている動物たちにとっては、なかなかそうはいかないし、植物にとってはもっとむずかしい。つまり結果として、少ないとはいえない割合が、育ち切る前に死んでしまったり、役に立たないものになったりして、収穫量はずいぶん減ったし、その値段はやっぱり上がった。

もうわかったろう。おれたち程度の等級の市民には、選択の余地がなくなってしまった。食料全般が以前の価格水準に戻るか、せめておれたちに手の出せる範囲に収まるまで、おれたちは牡蠣を食い続けるしかなくなったんだ。

今は、どこの植民衛星に行っても、なんとなく牡蠣のにおいがしているらしい。ポートに降り立った瞬間に、つんと金属くさいような、冷たいにおいが鼻を突くのがわかるそうだし、実際に、道端に半分腐った牡蠣がころがっている光景は当たり前になった。ある試算によれば、植民衛星すべての人口の、冷凍牡蠣の消費ペースから言って、これを食べきってしまうには向こう600年ほどかかるというんだから、まったく。


〈3〉

「でもよお。さっきの話じゃ、お前」

ずいぶん酔っぱらってから、オスカーはそう切り出した。こいつとおれはお互いに友人同士で、共同経営者でもある。気のいいやつだが、がさつで大雑把なところは気に食わない。もっとも、向こうに言わせればおれのほうが、神経質で偏屈だというんだろうし、お互い様というもんだろう。

「さっきの話。そのあとはどうなるんだよ?その、プランクトン?ってのが増えて?そんで、魚が死んじまったあとの話だよ」

今や、どこの居酒屋やカフェに行ったって、出てくるのは牡蠣ばかりだった。それ以外の品物だってメニューにはあるが、値段がバカ高く書き換えられていて、とても手が出ない。あるいは、そうでないとしよう。牡蠣を使ってない食事メニューで、値段も以前のままのようだ。勢い込んで注文するだろ?すると、こうなるんだ――『悪いね、さっきの客に出したので最後だったみたいだ。代わりに牡蠣はどうだい?』

結局、オスカーとおれは、ジンを一本、それに凍った牡蠣をひとかたまり買って部屋に帰り、こうして杯を酌み交わしている。皿の上に残った牡蠣をつつきまわしながら、おれは答えてやった。

「つまりな、生態系だよ。確かにその辺の魚はぜんぶ死んでしまって、腹を見せてプカプカ浮くことになった。でもな、その周りには魚がいるんだ。そいつらがやってきて、ものすごく発生したプランクトンをバクバク食うんだ。もしかしたら、死んだ魚だって喜んで食うかもしれない。そうして、プランクトンは元通りの数になって、周りの魚は腹いっぱい食って、そうして子供を産んで増えるだろ?そうするとだ。その、増えた魚を食おうと、もっとでっかいやつらが、今度は大喜びでやって来るのさ。そんな風にして、長い目で見れば、全体の数はたいして変わらないってわけなのさ」

オスカーは目をまるくしているが、勢い込んで話し続けるのは楽しい。おれは止まらなかった。おれの舌は。

「それにな、もしその、増えた魚を食う、でっかいやつが現れなくてもだ。プランクトンの増殖は一時的なんだ。増え切ったあとで、じゃあその全員が腹いっぱい食うだけの食い物をどうする?普段からそれだけ食えるなら、普段からそれだけの数がいるはずなんだ。たまたま、一時的に食い物が余ったから増えたぶんの魚は、食い物が余らなくなれば減るしかないんだよ。地球にはこういうシステムがあったんだ。つまり、生態系だよ。エコロジーだ」

そこまで一息に言って、おれは急に、気恥ずかしくなって黙り込んだ。なんのことはない――おれたちがいつまでも二人っきりで、うだつの上がらない商売をやってなきゃいけないのと、それは同じ理屈だからだ。この衛星のこの界隈には、おれたちが群れを拡大して維持するだけの餌はないのだった。

だが、オスカーは感心したようだった。

「なるほどねえ。よくできているんだな」

ゆっくりと首を左右に振りながらそう言って、腕を組み、椅子に深く座り込んだ。それで、おれも気分がよくなった。

「そうとも。よくできているんだ」

お互いにうなずき合って、おれたちはまた酒に戻った。


〈4〉

「でもよお。さっきの話じゃ、お前」

さらに聞こし召してから、オスカーはまた切り出した。その頃にはおれも、ほとんど完璧に出来上がっていて、睨むような目つきで先を促しただけだった。オスカーはちょっと怯んだが、結局、言い訳でもするように続けた。

「いや。さっきの話だけどよ。地球のシステム?で、やたら増えた生き物は、放っておけば、勝手に減っちまうんだろう?」

そう言っただろう。それがどうしたってんだ、とさらに鋭く睨みつけてやるが、オスカーはもう気にしていないようだった。こいつの鈍さはときどき、おれの癇に障る。

「でもよお。人間は、増えていったよな。そりゃもう地球にはいないけど、地球にいる頃から、どんどん増えていったんだって、そう聞いたぜ。おれは」

そりゃあ、お前。そう言いかけて、おれは手の中のグラスをまず干すことに決めた。安物のジンを一気に飲み下すと、グラスをテーブルに叩きつけて、言ってやった。

「そりゃあ、お前。そもそも人間は、地球のシステムの中にはいないんだよ。昔はいたんだが、そこから脱けたんだ。だいたい、地球のシステムってのには無駄が多いんだ。夜中にどっかの山の中で、よくわからん虫がごそごそ動いて、これまたよくわからんトカゲに食われるだの。名前もないようなしょうもない虫がブンブン飛び回って、派手な鳥に食われるだの。そんなのは、人間に関係ないだろ。でも、それもシステムの一部なんだ。地球のな。地球はそうやって、地球全体を維持するけど、人間は、それに付き合うのをやめたんだ。だから」

そのあとは、うまく続けられなかった。それでも、今の言葉は、オスカーになにがしかの霊感を与えたらしい。やつはグラスを抱えたまま、眉間に皺を寄せて考え込んでしまった。沈黙が降りてきて、しばらく居座った。結局、先に口を開いたのは、耐え切れなくなったおれの方だった。

「それにほら。こんなことは、地球のシステムじゃ起こらないだろう」

といって、フォークで皿の上の牡蠣を指してみせた。それはもうすっかり乾ききっていて、とても食い物と呼べるしろものじゃなかった。

「こんな、海がまるごと全部、同じ生物で埋まっちまう、なんてことはな。地球のシステムじゃないんだ。そんなことをしたら、ほかの生物が生きていけなくなって、みんな死んじまうだろ。それをもとに戻せるのも、人間が、地球のシステムの外にいるせいなんだな。まあ、そのおかげで、今回みたいな失敗もやっちまうわけだけど。知ってるか?海が牡蠣で埋まっちまった、ってのが分かったとき、担当の技師のやつは、げろを吐いて、目を回してぶっ倒れたそうだぜ」

今や、空気はすっかりシケてしまっていた。それで、おれは愛想笑いまでしてみせ、大げさな身振りで、話を締めくくった。それなのに、オスカーのやつは黙り込んだままだった。おれがそれにも腹を立てて、おい、寝てんのか、といおうとして、口を開きかけたとき、オスカーが割り込んできた。

「でもよお」

何度目だ。おれはいい加減頭へきちまって、動物みたいな唸り声を出した。それが、オスカーには、先を促されたように聞こえたらしい。こいつの鈍さは、まったくおれの癇に障る。だが、それに続いた言葉は、おれの予期してしないものだった。

「海をいっぱいにしたのが、牡蠣でよかったよな」

おれはそれを聞いても、なんと答えたものかわからなかった。呆けたような面をしていたかもしれない。それで、オスカーが慌てたように付け加えた。

「だってよお。これが牡蠣じゃなくって。さっきの話の、プランクトン?みたいなやつだったら?おれたちは何を食うんだよ?海水のスープを、すくって飲むのかな?そんなのは、」

おれはいやだぜ。たぶん、オスカーはそう言ったんだろう。けど、それは聞こえなかった。海水のスープと、安物のジンを、交互にすすりながら、地球のシステムについて喋りあうおれとオスカーのイメージ。それがどうしようもなく可笑しくて、おれはすでに、げらげらと笑い出していたからだ。オスカーも、最初こそとまどったような顔――おれ、何か、変なこと言ったかな?――をしていたものの、すぐに、つられて笑い始めた。そうして、二人で、ずいぶん長いこと笑い転げていた。


〈5〉

そんなことがあってから、オスカーはちょっと変わった。もともと、趣味といえば酒を飲むか、週末のフットボールの試合を観るか…あとはせいぜいドライブくらいしかなかったやつが、昔の地球にいた生物だとか、あるいは今、地球で飼育されている生物や、その生態に興味を示すようになったのだ。暇を作ってはちょくちょく、食糧省や環境省、それから衛生省の資料室なんかに通っているのだという。

おれにとっても、それは歓迎すべき変化だった。オスカーはいいやつだが、話題が少なくて、話をしていて退屈なことがままあったからな。実際、オスカーは面白い話をたくさん仕入れてきた。例えば、自分の卵をよその鳥の巣に放り込んで、代わりに育てさせる鳥の話。例えば、ほかの動物と食糧の奪い合いをしなくて済むように、わざわざ毒の葉を食料にしたはいいが、毒のせいで疲れ切って、一日中寝ている動物の話。例えば、群れで暮らし、それぞれに役割が与えられる性質だが、一部の成体は頭がまるごと酸を発射するだけの鉄砲になっていて、飯も食えずに餓死するだけの虫。こんな話を、山ほどだ。

しかし、何よりも不気味で、それだけに面白いのは、ほかの生物の行動を乗っ取り、コントロールしてしまう、悪辣な連中の話だった。食われるふりをして虫の腹の中に居座り、栄養を貰うだけ貰っておいて、十分大きくなったら、自分の卵を産むために、宿主の虫を水に飛び込ませて死なせるようなやつ。あるいは、より行動的に、宿主の虫を自分ごと鳥に食わせ、その糞に卵を混ぜるやつ――こいつは、鳥が見つけやすいように、宿主の虫の体を作り変えて、目の玉を飛び出させたうえ、ギラギラ光るサインにしてしまう、とんでもないやつだ。話は面白かったが、オスカーが一緒に映像を見せてきたときには、さすがに文句を言ってやった。こいつらは虫の話だが、もっと小さなカビの胞子だの、病気のウィルスだのの中にも、やっぱり感染した相手を操ってしまうようなやつが居るって聞いたときには、おれもシャッポを脱ぐしかなかったね。

オスカーは今や――少なくとも、特定の分野にかけては――おれよりも、ずっと博識だった。くだんの資料室にとどまらず、学校の教師だとか、学者の先生だとかを捕まえて、酒を奢って話を聞いたり、大学の公開講座に潜り込んだり。挙句の果てには、通信教育まで申し込んだというのだから驚きだ。おれとしては、長年の相棒が、ようやく趣味を見つけたことを喜んでやってもよかった。最初のうちは、だ。それに、仕事に支障を来すというものでもなかった。これも、最初のうちは、だった。

最近のオスカーは、深刻な顔をしてうろつき回ったり、手を止めてぼうっとしていることが多くなった。そうかと思えば、ぶつぶつと独り言をつぶやいていたりだ。仕事はたいして忙しいわけじゃなかったが、それでも、二人で四本しかない手が、半分も止まっちまうのは困る。それに、やつがここまで何かにのめり込むのを見るのは、なにしろ初めてだった。正直に言って、おれは怖くなったんだ。それで、近いうちに、こいつと話をしようと決めた。こないだのより、少しはましな酒を用意して。食うもののほうは、相変わらず牡蠣しかなかったけれど。


〈6〉

酒は上等だったが、話ははかばかしくなかった。生き物の話を避けると、オスカーの話題は相変わらず乏しい。それに、やつはまだ考え込んでいて、受け答えも上の空という感じだった。だから、ずいぶん長いこと、話もそこそこに、おれたちは牡蠣をつついて、酒を呷っていたが、そんな風に過ごすことに、おれはいらいらし始めたので、話の核心に切り込んでいった。

「なあ、いったい、最近のお前はおかしいぜ。何をひとりで考え込んでいるんだよ?これまでは、そんなことはなかったじゃないか」

おれがそう言うと、オスカーはとまどったようだった。何かを答えようとして、言葉を選ぶのに苦労しているようすだ。オスカーがそんな風に悩むのも、これまでは見たことがなかった――思ったとおりのことを、そのまま口に出すやつだったのだ。しばらくためらってから、オスカーは口を開いた。

「あのな。前に話した、虫のやつらがいるだろ?卵を残したり、広げるために、自分たちは食われてもいいようなやつらのことだけど。おれが聞いた話じゃな。生き物ってのは、だいたいがそうなんだ。自分のとか、群れの卵や子供のためにな。自分のことは放っておいたり、食われてやったりするんだよ」

そこでいったん話を止めて、やつは一気にグラスを呷った。それも、立て続けに、二杯。そうしておいて、ひどく悲しそうな顔をして、こう続けた。

「おれたちはなんだ?虫よりも、もっとちっぽけなやつらが。そんなふうに、卵だとか、子供たちのために、もっとでっかいやつに食われて、一緒に死んだりするっていうのに。おれたちは、つまらない仕事をして、めしを食って、酒を飲んで、それっきりじゃないか?もっと他に、やることはないのか?」

おれは、何も答えられなかった。何もだ。ひどいショックを受けていた。腹を立ててもいたし、恥ずかしくもあった。そりゃあ、おれだって。そう言いたいのは本当だったが、その後に続けられることは、何もなかったのだ。

答える代わりに、空いてしまった皿を片付けて、次の牡蠣を解凍しにキッチンに行った。気分を変えたかったんだ。いくつかの牡蠣を掴んで、オーブンに突っ込んで、しばらくすると、ひどいにおいが漂いはじめた。腐ったやつが混じっていたんだろう。解凍するまで、それはわからないのだ。おれは舌打ちした、そのときだ。

「おい、うまそうなにおいじゃないか?」

オスカーがそう言うのが聞こえて、おれは耳を疑った。やつは、そんな皮肉を言ってみせるようなタイプではないはずだったし、そんなタイミングでもないように思えた。おれも、やつも、お互いにひどい気分だったから。

「うまそうだって?お前、鼻がどうかしたのか?完全に腐っちまってるんだぞ」

「なんだって?」

オスカーが、どたどたと慌ててこっちにやってきた。それでおれは、腐った牡蠣をつまみ上げ、皿に乗せた。あんたは、腐った牡蠣ってやつを見たことがあるかな?そりゃあひどいもんで、表面は不気味に黄色く、テラテラといやらしく光っているんだ。それにもちろん、鼻にガツンとくる、あのひどいにおい。オスカーに見せてやろうとしたのは失敗だった。その前に、おれが耐えられなくなったんだ。

腹の底からこみ上げてきちまったもんで、おれは牡蠣を放り出してトイレに駆け込み、げえげえとやった。酸っぱいにおいの胃液と一緒に、丸のまんまだとか、半分消化されかかった牡蠣が、大量に出てきて、おれは涙ぐんだ。ようやく戻しきって、悪態をつきながら口をゆすぎに行くと、キッチンでは、オスカーが真っ青な顔をして、おれと、おれがさっき放り捨てた腐った牡蠣とを、交互に見比べていた。吐いたのはおれだってのに、やつときたら、死人みたいな顔だった。

「見ろよ、ひでえもんだ。すぐに次を用意するから、あっちで待ってろよ」

おれがそう言うのにはまったく答えず、オスカーはわなわなと震えながら、たった一言だけをあえぐように言った。

「吐いたな」

おれには、その言葉の意味がわからなかった。げろを吐いたのはほんとうだが、そのことで、なぜこんなに怯えなきゃならない?少しむっとして、おれはわざと陽気に言った。

「ああ、吐いたぜ。すっきりしたよ、お前もどうだ?それで、また飲み直しだ。つまらない話をやめて、もっと楽しい話をしようぜ」

だが、オスカーの答えは、またも不可解なものだった。やつはまだ震えながら、こう言ったのだ。

「お前。そうか。おれまで、は、吐かせようってのか」

そこでようやく、おれはオスカーが異常な状態にあることに気づいた。なだめて落ち着かせようとしたが、やつは拒絶して、ヒステリックにわめき出した。

「触るな!近よらないでくれ!お前、いいか、お前はな。吐かされたんだ。吐き出すようにされたんだぞ。腐った牡蠣を、く、食うように仕向けられたんだ!そうすりゃあ、そうすりゃあ――」

オスカーはそこでいったん言葉を切った。あるいは、絶句した、というべきかもしれない。目をまん丸くして、しばらく黙っていたが、そのあいだも、体の震えはどんどんひどくなっていった。やがて、やつがまた口を開いたときには、その内容もずっとひどくなっていた。

「そうか。そ、そうか。わかったぞ。牡蠣がふ、増えたのは、増やしたかったからなんだな。牡蠣が増えれば、役に立つんだ。か、牡蠣が食われなきゃあいけない。そのために、牡蠣は、どこにでも行ける――」

もう、おれにはどうしようもなかった。まったく、どうしてこうなっちまったんだ?わかるのは、今日はもう、やつを帰したほうがいいってことくらいだ。

「もういい、わかった。オスカー、今日は帰ってくれ。おひらきにしようぜ。それに、明日は仕事に出てこなくてもいいさ。お前、ちょっとノイローゼ気味なんじゃないのか?ともかく、少し休んでだな…」

オスカーはもう、真っ青なんかじゃなかった。興奮して、真っ赤になっていた。部屋を出て行きながら、ものすごい剣幕でまくし立てていた。

「おれは吐かないぞ。吐くものか!いいか、吐くってことは、そういう生き物の役に立つってことだ。乗り物にされるって、こ、ことだぞ!まず食わせて、は、吐かせて、乗り物にして、そうやって――」

そうやって、オスカーは出ていった。おれは、わけがわからないのが半分。もう半分では、ひどく腹を立てていた。片付けもそこそこに、酒をもう一杯注いで、それを舐めながら寝ることにした。


〈7〉

次の日、おれが言ったとおり、オスカーは仕事に出てこなかった。おれのほうも、朝のうちこそやつに腹を立ててはいたが――おれたちのつきあいはほどほどの礼儀正しさを保っていて、あんなふうな物別れに終わったのは、なにしろはじめてだったんだ――昼食のころにはもう、それも収まっていた。なんといっても、長年の相棒なんだし、ちょっとばかり調子が悪いことがあったって、それがどうしたっていうんだ?そんな調子で、夕方近くになると、帰りには、あいつの様子を見に部屋に寄っていってやろう、なんて考えていた。

だから、いつもより早めに仕事を切り上げて、外に出ようとしたところだった。このあたりじゃちょっと見ないくらいに、身なりのりっぱな、二人組みの男が、こっちへ向かってくるところだった。おれはちょっと眺めていたが、かれらがおれに会釈をしてみせるので、こっちも愛想を顔に浮かべて、こう言った。

「すみませんがね、だんな方。今日はもう店じまいをしちまったところなんですよ」

片方が首を振って、自分たちは客ではなく、治安局からやってきた職員だ、と名乗り、IDを見せてきた(それはほんものらしく見えた)。治安局、と聞いて、おれの頭に最初に浮かんだのは、オスカーが何かやらかしたんじゃないか、ということだ。昨晩のあいつの様子から言って、帰り道にだれかとトラブルを起こす、なんてのは十分ありえることだったからな。そうして本当に、オスカーさんの勤め先はこちらでしょうか、なんて訊いてきたので、おれはいよいよ心配になっちまった。

「ええ、その通りです。でも、オスカーは今日は休みでね。あいつが何かやらかしたんですか?喧嘩をしたとか・・・」

もう片方がまた首を振って――役割分担ができていた――いえ、そうじゃないんですよ、ちょっと中で話せませんか、とこう言ってきた。おれはこのあたりで、ひどく悪い予感がしてきたものだが、とりあえず話を聞かなきゃならない。おれは二人といっしょに、店の中に入った。

予感はすぐに当たった。話の内容は最悪だった。

今日の昼すぎに、オスカーが、やつの部屋の中で死んでいるのが発見されたのだという。その死に方というのがひどい。なんでも、げろを吐いて、目を回して、その中にぶっ倒れたらしい。あるいは、目を回してぶっ倒れてから、そのままげろを吐いたのか。どちらにしても、やつにとっては大した違いではなかっただろう。

哀れなオスカーは、溺れて死んだのだ。

自分で吐いた、牡蠣でいっぱいの、げろの海で。


〈了〉

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