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戦争と平和(こころの)

最近、映画を観たり、本を読むだけではなく、日常のふとしたことである、雪が降ったり、落し物をしたり、広告を目にしたり、といったことがインスピレーションになって、いろんな映像が浮かんでくることが多くなった。

今までもそういうことがあって、そういうときには、日記を書いていた。今も日記は書いているが、noteにも書くようになった。

私は、表現することが恥ずかしかった。毎日のように詩や文章を書いていたが、それを人に知られることは、思春期以降、恥ずかしいと思うようになってしまった。人に良い評価を持ってもらえるような作品になってから、公表すべきだと思っていた。ある日文学賞でもとって有名になってから、「え、さおり、小説なんて書いてたの?」と言われたかった。せめて、文章で生計を立てられるようになれば、それは仕事だから、堂々とできるような気がした。

でも、私は本当は、別に文章で生計を立てたいわけじゃなかった。私はただの文学少女で、自分の愛する作家たちと同じように、文章で自分を表現し、誰かにわかってもらいたかっただけだったのに、それが恥ずかしくて仕方がなかった。

あるとき、友だちと話していて、涙が出た。その友だちは、結婚して子供もいて、大企業に勤めていたけど辞めてベンチャー会社の取締役になった。家族を大切にし、仕事で挑戦をしている。一般ウケもいい人生。彼は、私が「多様性」という言葉を出したとき、「多様性って言葉で逃げるな」と言った。逃げてるわけじゃない、でも、言葉に詰まって、泣いてしまった。

一方の私は、結婚もダメにし、家族のごたごたはあるし、きっとこれから先、子どもも産まないし、仕事も変わってばかりでいまいち情熱を持てない。それでいいや、と思ってたのに、一般的に見ても良い人生を送っている(ように見える)彼と自分を比較して劣等感を抱いているのが悔しかった。劣等感で泣いている、ということは、私は本当には、自分の主張する、他人と比べなくていい、自分のためだけの価値観なんてもの、信じてないのか?と思った。大げさに聞こえるかもしれないが、あのときは、私にとってどん底だった。プライドのどん底。情けなくて、小さくて、なんなんだ私、と思った。

でも、やっぱり、家族を大切にすることも、仕事で挑戦することも、立派だし、どうぞおやんなさい、と思うけど、「私」は、実はそれはどうでもよかった。私が欲しいのは、そんな誰からも「いいね」と言われる人生じゃなかった。本当に私がやりたいことって、なんだろう、と真剣に考えたとき、今まで恥ずかしいからと、ごまかして、ずっと向き合って来なかったこと、表現することだ、と考えが及んだ。すばらしい作品を作ることでも、売れる作品をつくることでも、孤高の天才アーティストになることでもなかった。

私のことを誰かにわかってもらいたい。そのためなら、他人からつまんない人生だな、と思われても構わない。敵は、自分だった。常識的な人生、おしゃれな人生、資本主義に合った人生、は敵ではなかった。ラブロマンスや、ホームドラマや、スポ根といったいろんなジャンルの漫画の主人公に一度になろうとしている自分が、敵だった。なにもかも全て理想通りじゃなくていい。一人きりだって、世界の美しさを感じ取ることができて、それが表現できれば、それでいい。生きてて、自分がやりたいことやれば、それでいい。それは、ある人々にとっては、怠慢に見えるかもしれない。言い訳に聞こえるかもしれない。逃げているように思われるかもしれない。でも、私にとっては、戦っていることだから。私は、それから戦争状態だ。

すぐに、常識的な価値観や理想を持ち出してくる自分自身と戦っている。負けたらまた、泣くしかないからだ。そしてその涙は、私の今までの言葉への裏切り行為だ。
昨日の詩は、あれは働く人、生きることに一生懸命な人や、フラニーのように真剣に悩んでいる人への讃歌であり、いつも戦って殺している、古い自分への最期のはなむけだ。

何かあったのか、と聞かれた。一言でいうなら、平和を捨てて戦争してる、と答えるしかない。

#エッセイ #最後ちょっとかっこつけすぎて恥ずかしい

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