君と心がつながりたいよ

春生まれなのに、春が苦手で。今年は特に、気温の変化が乱高下しすぎて、体調も回復したと思えばまた悪くなったりでなかなか気持ちよく過ごせません。
喉がずっと痛くて、また扁桃腺が腫れていることは、外側から触っても明らかで、家の近くの祝日もやっているクリニックに行ったら、臨時休業となっていました。仕方なく市販の飲み薬とうがい薬と、ぬれマスクとポカリスエット。

体調の悪さとともに、気持ちも落ち込んでしまって、noteに文章を書こうと何度も挑戦をしたんですが、休むとそれだけ書けなくなるのは、なぜなんでしょうね。筋肉といっしょで、体と同じで、文章も、今日書くことが明日のエネルギーになるのかもしれない。明日書けるように、今日書きたいなと思いました。希望がないと、なんにもできない。

会社の雰囲気がずっと悪くて、同僚と話をしているなかで、「わかってるけど、気持ちがついていかないよね」と何回か言われて、私はちょっと(怒ったのでなく)キレて、「感情に負けちゃダメです!感情と戦って、勝たないと!ずっと泣いて暮らすしかなくなるんですよ!」と言った。ら、同僚は優しく笑って「そうだね」と言ってくれた。
自分で言っておいて後からわかった。感情を主役にして悲劇を上演させていたのは、私だった。感情という役者を、本当に輝かせるのは、舞台監督の仕事で、舞台監督を勤めるのは、理性じゃない、常識じゃない、正義でも愛でもない、「意志」なんだって思った。「私は、ずっと泣いて生きるなんて嫌だ。毎日幸せになってやる!」という意志。

淋しいな、と思うときがある。
自分は誰にもわかってもらえないや、
と思って、その発想の陳腐さにも悶えるとき、「承認欲求」は3大欲求の次の第4の欲求だとかなんとか、そういうことを聞いて、むつかしいことを、わらわら考えた。
淋しいときに友だちに会っても、愚痴っても、淋しいまんまだし、仮に淋しくなることも含めて好きだよと言われても、余計に淋しくなるなと思った。

でも、私が同僚に熱くなったとき、その子の目が優しく笑ったのを見たり、noteで同じようなことを考えている人を見つけたりしたときに、シンプルに「心がつながった」ような気持ちになることがあって、ああ、それだけでいいんだ、とわかった。

例えば、よく「どこからが浮気か」みたいな話があるじゃないですか。私は自分のパートナーが誰かと恋のような感情で「心がつながって」いたら、2人が少しも触れていなくても嫌だなぁと思う。泉鏡花の「外科室」のような。でも、それは本人たちにしかわからない。わからなくていいことだ。

私がこれから恋をするなら、パートナーとは心がつながってたいなぁと思う。それ以外は、そんなに重要なことじゃない。

私がこれから仕事をするとき、誰かと心がつながったり、つなげたりする仕事がいいなぁと思う。それ以外は、そんなに重要なことじゃない。

私が文章を書くなら、誰かと心がつながる文章を書きたい。それ以外は、そんなに重要なことじゃない。

私がこの先もこの社会で、どうしても生きていかなければいけないなら、不条理な生に従うなら、誰かと心が通じ合う瞬間を求めていきたい。それ以外は、そんなに重要なことじゃない。

それで、じゃあどうやってそれをするのさ、というとき、シンプルな答えがでた。

笑おう。

#エッセイ



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