子は親のかすがい

あなたがいるから離婚できない

早く自由になりたいと泣いた。
私の母親だなと思った。結局吐いてしまう。
言われてしまったら忘れることは出来ない。

自分のおかげだと思っていた。よく周りを見て、空気を読んで立ち回れる自分がいるから、こんなに仲の良い家族が成り立っている。子供心に役割を宿した。大切な成長過程だった。
そんなことはなかった。皆んな私のために演出していた。作られた幸せだった。

と、幼少に微傷を負ったわけだが、時を経て、やっぱりウチは仲が良い。
円満な夫婦に必要なのは演技力だと思う。女子校の恋話でそんなことを言えば許されない。けれどもそういう視点しかなかった。いずれ絶えるものにどれだけ執着できるか、その素振りができるか。恋愛で燃えるべきはそこだ。信じられるものだった。だから恋をするたび気が狂ってしまったし、失恋をすれば1週間天井を眺め、ようやく起きたと思ったら後に悔やむほどの断捨離を始める。信念に従順だった。自論を尊重することでしか、自分を大切に出来なかった。ま、充分だよね。

両親のような夫婦になりたいと思う。なりたくないとも思う。
何にでも理想像を描くのは良くない。特に結婚観なんて、切り開いていくものだろ。

そういえば2人が愛しているなんて言っているところ、見たことがない。

嘗て私は生理的に無理な人間にでも愛していると言えた。ただそれは、相手を愛していなかったからである。どうでも良い、責任を負うつもりはない、まともに付き合う気がない。だから今好意を伝えるのを恐れている。言語化すると適当な気まぐれに同化してしまうのではないかと。どうせ今回もそんなもんなんじゃないかと。
愛したうえで、愛していると言えるだろうか。たくさん嘘をついてきて、今更。
義務を果たしてこその権利を、義務から放棄してしまったのではないか。
キャッチアンドリリースみたいな、自分勝手な男女関係しか知らなかった。捨てられる前に捨てるんだ、戦々恐々として相手を見失う。忘れちゃったらもう要らないんだ。

背中合わせがいい。少しでも離れたらもういくら離れたのか分からなくなって、気にしないでいい。危機に直面して後退りをする時、背中が触れ合えば安心する。都合が良い。
けれど触れなかったら。気付かぬ間にどこか行ってしまっていたら。
泣き喚いて暴れるだろう。わんわん泣いて探し回るんだろう。
目の前で消えられるのと、見失って2度と会えないのと、どっちがいい。
だから勝手に消えないって信頼できた相手に背を向けるものなんだ。つまり恋愛の最終形態として相応しいし、大半がそうなんじゃないか。

私はかすがいだった。盛り上げとか調和とか、そんなもんじゃなく。
子を産んだ責任として、義務としての鎖だった。ふたりを繋ぎ止める、重く錆びた鎖。
だから生まれてこなければよかった。誰かを苦しめるために、生まれてくるつもりはなかった。ずっと昔に言われた死ねが響くんだ。どれだけ大切にされようが、鈍い包丁を渡してきた母親が忘れられない。根に持つタイプだから。「幼少期」を、痛いほど大切にしようと誓ったから。

そんな時は一生来ないけれど、結婚式で手紙を読む時、なんて言ったらいいんだろう。

両親のように上辺を演じられるんだろうか。ぶつかったこともあったけど、なんて一言で済ませられるだろうか。馬鹿馬鹿馬鹿大嫌い、憎んでも憎みきれない、絶対許さない、殺してよ、産まないでよ、ありがとう、ありがとう、ごめんなさい。世の中の花嫁さんはこれを押し殺しているんだな。

母と子は背中合わせにはなれない。孕んだ胎児はずっと腹の中だ。どれだけ遠くに行っても。そこに父がいれば目を背けることは許されない。責任を持って、離さないで。
家族愛が恋愛の延長線上にあるなら、私はその転換期に適応できないだろう。
今更見つめ合って、何になるんだ。拒否感が生まれる。
そこで必要なのが、かすがいである。
だから両想いの恋愛を経なかった夫婦はかすがいの意義に疎い。たとえ微弱でも最初から向き合っていたところにわざわざかまされても、窮屈に感じ不自由を覚えるだけだ。産まなければよかった、になる。この子のせいで別れられない。

子の存在意義が両親によって定義されるのか?されない。あくまでも1ワールドでの話だ。けれどもそれは子供にとって残酷なほど大切で、何より重要な世界になりがちだ。
ただそれだけなんだ。生まれなけばよかった、なんてことはない。

私はかすがいである。
どうしようもなく大切で壊れやすいものの、必死で脆弱な守り人。

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