感情と感覚

わざわざ暑いこところでゴロゴロしていて、熱中症らしき症状に陥った。
クリームたっぷりの味のしないケーキに、七味をかけて満足していた。

ぬいぐるみを八つ裂きにされた。大切な大切な、恋人のような(私に恋人ができたなら同等の扱いをするであろう)ぬいぐるみ。身体中が痛んだ。

感覚と感情の分別が下手なのかもしれない。感情に乏しくなった時、感覚に頼ってしまう。よくあることだと思う。喜怒哀楽を抑えたり失ったりすると、近くて分かりやすい感覚を感情のサブとして乱用する。痛いのとか、気持ちいいのとか、あくまでも感覚であるそれらを、ここでは擬似感情と呼ぼう。

スパイスにこだわる人間を、抑うつ状態から回復しかけた又はしたものだと思っている。味がなくなった世界でも辛さは痛覚として残る。微かでも、ほとんど感じられなくても(無痛化)、なんとなく、実体のない実体として想える。興味関心がその刺激から芽生えていって、外界との再接触を試みるんだ。高度な知能を持っていては感情を失えない。それってつまり、考えること自体は辛くないんだ。思考に付随する感情を遠ざけるために、あまりにも自身を侵す感情から身を守るために、私は何も考えられなくなった。けれどふともの思う時、同時に感情がおかしいくらいフル稼働してしまって、それを消すために擬似感情に頼る。感情と思考は伴い合うが、感覚は単体で成立する。

医療とか、保育とか、恐ろしく繁殖能力が高い生命体には、生きる本能だけでなく死ぬ本能も備わって生まれてきていてほしい。集団自滅しないように、ある程度犠牲が必要で、私もそちら側の人間なのだろうと思っている。根拠は、擬似感情としての希死念慮である。悲しみと苦しみって並べられがちだけど前者は感情、後者は擬似感情で、まあ、分類するなら後者なのかな、とか思う。本能に従うのは必ずしも善じゃないし、擬似感情に囚われるのは幼子に手加減をして煽てるようなものだ。だから、死にたいと思いながら死ななくて良い。どんなに死にたいと思っても生きてて良い。感覚を楽しんでやれ。

じゃあ理性的な自殺願望はどうしたらいいんだろう。
論理的に自分が死ぬべき理由を述べて、相手が何も言えなくなったり、泣き出したり、すごく怒ったり、じゃあ死ねば、というオチになるのが、すごく怖いのに、もう2度と誰にもされたくないのに、それなのに肯定されたいのは、結局感情だからなのだろうか。今はただ、うんうんそうだね、と言ってくれる人が欲しくて、でも人をそんな都合の良いように使いたくなくて、というか見抜かれて、そのまま適当に傷を舐め合うんじゃ満たされなくて、大学生をしている。けれどこれって幼少から持ち運んできたものだから、せっかく早く手にした感覚を周りに追い抜かされそうで悔しい。誰にでもあるそういう時期が、ちょっと早く来たんだね、と言われたのが懐かしくて、結局成長が遅いんだろな、と思う。拗らせて終わりない。

アトピー性皮膚炎もあるかもな。ステロイドの副作用とか、痒いって感覚とかね。
感覚に感情が奪われることもあるよね。感情は左右されるどころか消し飛んでしまう。
だから擬似感情に助けを求めるんだ。

だから今、何か感覚に溺れている人は、感情を面倒に思わずその場しのぎにせず、なんて余裕があったらとっくに常人に成れているよな!無理無理!解散👋

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