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問答の核心とは?

永平寺を開かれた道元禅師が「弁道話」という書物を残されています。
わたしは若い頃に、この話を読んで胸がつまりました。
今日の景色にちなみ、新緑のような気持ちで、この話の核心についてお伝えしたいと存じます。


唐時代末期の中国に則監寺そくかんすという僧が、法眼禅師の参禅会の中にいました。法眼禅師は、則監寺に質問します。

「則監寺さん、あなたはこの会に参加して、どれだけ経ちましたか?」

則監寺が禅師に答えます。

「私は、この会に参加して既に三年が経ちました」

禅師はさらに問います。

「あなたは私の後輩です。なぜ常に私に仏教を問わないのですか?」

則監寺が答えます。

「私は、和尚様をあざむいているわけではありません。かつて、青峰禅師の所にいた時に、仏教についてはすでに安楽の境地に至っております」

法眼禅師が重ねて問います。

「あなたは、どのような言葉によって、安楽の境地に至ったのですか?」

則監寺は答えます。

「私は、かつて青峰禅師に、
『いかなるものが、学ぶ人の自己でしょうか?』と質問しました。
青峰禅師は【火の童子どうじが来て火を求める】とおっしゃいました」

法眼禅師はしみじみと則監寺に語りました。

「良い言葉です。ただおそらく、あなたはまだ会得していないでしょう」

則監寺はそれに答えて言いました、

「火の童子は火の子どもです。火をもって更に火を求めるのは、自己をもって自己を求めるのに似ている、と会得しております」

法眼禅師は言います。

「じつに、あなたは会得していない、とわかりました。もし仏教が、そのような代物であるならば、今日まで仏教は伝わらなかったことでしょう」

則監寺は、焦燥し煩悶して、席を立ってしまいました。

しかし、帰り道の途中で、はたと思い至ります。

「法眼禅師は、天下の善知識ぜんちしきであり、五百人の大導師だ。
私の非を諫めて下さったのだ。きっと優れたことがあるに違いない」

そして、禅師の元に戻って懺悔し、礼拝して尋ねました。

「いかなるものが、学ぶ人の自己でしょうか?」

法眼禅師は言いました。

「火の童子が来て火を求める」

則監寺は、この言葉の下に、大いに仏教を悟りました。

・・・

自己即仏じこそくぶつ」の了解をもって仏教を知ったことにはなりません。
自分が納得したことをもって仏教がわかるものではないのです。

もし「自己即仏」の了解を仏教(仏法)にしてしまったら、禅師は先の言葉をもって導かないでしょうし、このように戒めないことでしょう。

はじめて善知識にお会いしてから、修行について詳しく質問して、一心に坐禅して道をわきまえ、一つの知や半端な理解を心に留める事がないように。

仏教の妙なる術(核心)は、むなしくありません。


いかがでしょうか?
道元禅師が昔の説話を語られた真意がいまに伝わっております。
この質問の重要性を知って、わたしは修行を決意しました。
師をもとめる旅の始まりでありました。

緑色ぬり重ね山静かなり(水)


なつかしや田舎の緑かわりなし

今日は、昭和天皇の誕生日で「昭和の日」です。
時はたしかに流れていきます。
ご覧いただき有難うございました。
念水庵


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