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【ネタバレ】映画レビュー「春画先生」 弓子編

基本情報

「春画先生」は2023年10月13日公開の日本映画。一応ジャンルはコメディーと言うことになっていて、在野で春画研究を続ける芳賀一郎と、その弟子春野弓子がメインキャラクター。

僕も大好きな春画をテーマにした映画ということで、観てきたよ!役者さんたちの演技がとても素晴らしく、久しぶりに「引き込まれた」と感じた映画。役者さんたちの細かな表情、小道具の懲りよう、そして名作春画の数々。映画館で観られて良かった、と素直に思えました。

以下のレビュー、感想は、映画を視聴済みの方を対象にしています。観てない人にはほぼ何のことか分からないハズなので、ご注意を。

以下、ネタバレ注意!!!!!!!(スクロールで本文が表示されます)








弓子は芳賀を支配したのか?

実は、本作で一番引っかかりを感じたのはこの点。一見、弓子はS女として覚醒し、M男である芳賀のケツを文字通り叩いて支配している。でも、観ようによっては「芳賀の性癖に合わせているだけ」とも言える。弓子が芳賀にベタ惚れしているのは間違いないのだけど、セックスの面においては、S女とM男の関係は弓子の本意ではないと思うのだ。

弓子の性癖って?

結論から言うと「強くて賢い男に、多少強引気味であっても引っ張ってもらいたい・抱かれたい」というのが、弓子のセックス願望だと思える。キーとなるシーンはいくつかある。

シーン1:地方の春画ハントで古いホテルに泊まるシーン。弓子は芳賀の部屋を訪れ、ハリウッドの放映コードについて説明する芳賀に「先生は何でもご存じなんですね」と微笑む。その後「自分はもう人を愛せないと思っていた」「今、自分はとても自由だ」と告げ、辻本の部屋に行き中継3Pをする。

シーン2:京都での品評会で一葉に会い気を失った後、かつて観た春画を再現する淫夢を見る。戦国時代?の姫になった弓子は、鎧武者姿の芳賀に前戯もナシに挿入される(まあ、これは時間の都合とか、倫理コードとかの関係もあるのだろうけど)。「このときをどれほど待ちわびたことか」と弓子は悦びの声を上げる。

シーン1では、芳賀の博識ぶりを素直に褒める会話があるけれど、少なくとも僕は弓子の言い方に全く嫌味を感じなかった。弓子が芳賀に惹かれたのは、春画を通じた師弟関係の中でのこと。芳賀の知性を感じることに、弓子は悦びを覚えているように見えた。

シーン2では、正直僕は、直前の春画に描かれていたタコが出てくるんじゃないかとちょっと期待していた。映画も予算ありきなので、VFXを使ったタコとのセックスシーンは難しかったのかもしれないけれど、一葉の登場は弓子にとっては悪夢で、悪夢のセックスという意味でタコの登場は全然不自然じゃない。

でも、登場したのは鎧武者姿の芳賀だった。甲冑という男性的・暴力的な姿で、弓子の意思を確かめることなく抱く芳賀。そして、そのことを弓子は心から悦んでいる。こういう関係こそが弓子の理想だ、というのは自然な解釈ではないだろうか。

弓子は芳賀に振り回されているだけ?

しかし、芳賀は確かに強くて賢いのだけれども、その実はNTR趣味でドMだった。ここで、弓子は究極の選択を迫られる。芳賀の望み通りの女になるか。自らの性癖を貫くか。弓子が選んだのは前者だった。その意味で、弓子は芳賀に振り回されている。いや、むしろ劇中を通して、芳賀に振り回されていない弓子を見つける方が難しい。これは弓子の本意なんだろうか?結局のところ、女が男に従うという古いクリシェを焼き直しただけなんじゃないだろうか?

でも、僕はそうではないと思う。弓子は芳賀と春画のおかげで再び他人を愛せるようになった。その意味を、もう少し深掘りしてみたい。

「愛する」とは何か?

これも結論から言うと、愛するとは「不完全なものを、不完全なまま受け容れる」という能動的な行為だと思うのだ。不朽の名著、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」が述べるように、愛するということは知らないうちに湧き上がってくるものではなく、極めて能動的な行為で、鍛錬することができる。また、単に「頭で分かっている」では足りず、「体感する」というレベルで、相手を受け容れなければならない。

あるいは、これも不朽の名著、クシュナーの「なぜ私だけが苦しむのか」が述べるように、完全なものなどこの世になく「自分の好みに完全にあったものでなければ愛せない」というのは、とても幼稚な態度なのだ。この世の全ては不完全。愛するということは、それを受け容れることでもある。

弓子は芳賀を愛することにした

だから弓子の選択、「芳賀を愛する」=「自分の好みはとりあえず置いておいて、M男である芳賀を受け容れ、その性癖に合わせる」というのは、とても能動的で主体的な行動なのだ。そして、もう一つキーになる言葉があって、それは弓子が口にした「自分は今、自由だ」という言葉。でも、自由って何だろう?何から自由になったのだろう?

フリーダ・カーロのように自由

ここで、思い出すのが20世紀の偉大な女性クリエーター、フリーダ・カーロ。彼女は絵画だけじゃなく、フェミニズムの文脈でもよく登場する人物の一人だけど…でも、その人生を辿ると、夫であるディエゴ・リベラにとにかく振り回され、そのために波瀾万丈な人生を送るハメになる。

彼女を知ったとき、なぜこんな小舟にように運命と夫に翻弄された女性がフェミニズムの中で重要とされるのか、意味が分からなかった。でも、時間が経つにつれてその意味も少しずつ分かってきて、それが彼女の自由さだ。

つまり、彼女は夫にベタ惚れしていたけれども、「自分の心身やセックスを夫や他の誰かに独占させること」は絶対にしなかった。バイセクシャルであったカーロは、トロツキーやイサム・ノグチといった著名人や、女性との性的な関係を数多く築いた。

それは、ディエゴ・リベラもそうだったから、そうならざるを得なかった、という側面はある。でも、たとえディエゴ・リベラが彼女の理想にもっと近い人であっても、カーロはあまり変わらなかったようにも思う。その自由さは彼女の本質だし、その意味で、彼女は充分にフェミニストだ。

弓子が見つけた自由

弓子も「自分は自由だ」と芳賀に告げる。それは、芳賀のことを深く愛しているけれど、自分のセックスに対する選択権までは明け渡さない、という宣言のように思えた。

そして、彼女は芳賀という男を愛しつつ、自分のセックスを満たす辻本との関係も続ける。「おしどり夫婦」というように緊密なパートナーシップの象徴にもなる鳥類は、観察を続けるとほとんどの個体は浮気をするという。本作の象徴であるセキレイ――日本の国づくりを助け、芳賀の家のチャイムを鳴らすことをためらう弓子の背中を押した美しい鳥はまた、弓子の自由さを象徴する鳥でもあると思うのだ。

想像以上に長くなったので、「芳賀編」に続く!


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