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ヨガについて

そうだ、と、時々思い出したかのようにヨガ講座をUPするようにしています。
何方も興味を持たなくても、それでも。

世の中のヨガを教えてらっしゃる方、ヨギ、ヨギーニの方、どのような感覚でヨガをされているのか、何が正解か、不正解か、そのどちらもないのか(私はそう思っていますが)、ヨギ・ヨギーニの数だけそれはそのスタイルがあるということになるかと思います。

ヨガは宗教か。
そう訊ねられたなら、宗教とおっしゃる方もいらっしゃれば、宗教ではないとおっしゃる方もいらっしゃいます。
私は、そのどちらでもなく、そのどちらでもよいのでは?と思います。
そこに拘りを持つ必要がないからです。

何故、こうまでして(ヨガ講座を作ってまで)ヨガヨガ言うのか。
ヨガは、気づきのためのツールになるからです。
コントロールされないためのツールになるからです。
単に、肉体を強化するためのものではなく、祈りのためだけでもない。
その部分がないとは言いませんが、大きな理由はそこにあります。

そんなものに使うものじゃない、そうおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。
でも、実際自分をコントロールするためのものであるのは事実ですので、であれば、他からのコントロールに乗らないでいることができるとも言えるわけです。
これまでも何度もことあるごとにご説明してまいりましたが、ヨガである必要もありません。他にヨガをせずともそうなられてらっしゃる方だってたくさんいらっしゃるはずです。何でもよいと思うのです。でも、やはり気づいていかないと…と思うのです。
知識も必要です。でも知識だけではないのですよね。
知っているのと、それを実践できるのとでは全然別物になります。

正直、ヨガを毎日続けることって、簡単なようで簡単ではありません。いくらでも「行わない言い訳」はできてしまいますし、別にやらなくたって誰に咎められる必要もありません。
でも、それだと変化もしません。だから、簡単なようでいて、続けるということは簡単なことではないのですよね。

ヨガは古、いったいどうして成り立ったのか。
諸説ありますが、ヨガのルーツに挙げられる教典、経典はいくつかあります。その全てを読破したわけでもなく、基本的にはヨーガ・スートラで学びましたが、いくつかを読んだこともありました。
でも、先に進まないものが一冊あったのです。どうしても、読めない。それをどのように表現したものか、読むことはできたのでしょうけれど、読みたくない。受け入れられない、というもの、それが一番近い感覚ではないでしょうか。
後に、それは、権力者側の人たちが学ぶべくものであることを知りました。なるほど、受け付けないはずです。
でも、そういったものもヨガのルーツの中に入るのであれば、いったいヨガとは誰にとってのものとして作られたことになりましょうか。

これは、実際にお会いしてお訊きしたわけではありませんから、想像になりますが、ヨーガ・スートラを書かれたパタンジャリさんは、一般人と言いますか、修行するものではありますが、権力者のために書かれたのではないと思います。
でも、その後に書き換えられた形跡があると言われていて、そこにはなんらかの意図があるものだったのか、それとも、よりよくしようと思ってのことなのかはどうとでも取れますが、とにかく、書き加えられたものではないもの、パタンジャリさんが書かれたものはそのように思うのです。

学んでいくと、モラリストにでもなれと言うのか?
と思わないでもありません。
でも、モラリストになるためのものではありません。ここはとても重要です。
~しなくてはならない、~すべきである。
など言うものではありません。
でも、そのようなところは通過しなくてはいけないのです。
これ、凄くわかりにくいですね。
そこは、誰かに命令されたりするものではなく、当たり前にそうなるもの、と言えばよいでしょうか。
もっとわかりにくくなってしまったかもしれません。

とりあえず、「本当」を見る目が養われるとよいですね。


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