憲法における髪型の自由についての雑感

今回は、憲法における髪型の自由についての雑感を書きたいと思います。

司法試験が近いので文献での裏採りはしていないので、個人的な感想というふうに読んでください。

髪型の自由が憲法上保障されるか、という論点があります。

髪型の自由の制約が想定される場面は、主に公務員の髪型の自由や、公立の学校での髪型の自由です(私人間の問題はここでは扱いません)。


従来、髪型の自由を憲法上保障されると主張する立場からは、髪型の自由も表現行為の一部だ、と表現の自由の観点から補強したり、人格的生存に不可欠なものだ、と人格的なアプローチをとっているものが多い印象です。

ただし、髪型の自由それ自体に、表現行為や思想・良心を発現しているとは言い難いので、これらの考え方は裁判実務でも退けられていたと思います。
つまり、公立学校や公務員の髪型の自由は比較的簡単に制約が合法とされてきました。


■別の視点

しかし、そもそも髪型の自由の表現行為や信条の発露としての価値からアプローチする立場にも相応の理由があると思いますが、果たして本質を捉えているのでしょうか。

そもそも、この問題のポイントは、髪型の自由というよりも、髪型を他者に強制されない自由が問題となっていることです。

繰り返しますが、この問題の本質は、髪型の自由ではなく、髪型を他者に強制されない自由です。

これは、他人から干渉されないという広い意味でのプライバシーに当たります。

髪型の自由は、他者から干渉されない自由として捉えた方が、実はその事物の本質を捉えやすいと思います。

なぜなら、髪型の自由というのは、常に外部から観察できその人の容姿の印象を決定づける重要な構成部分である性質を持っているので、他者から干渉されない自由として位置付けたほうが、議論がしやすいでしょう。

つまり、髪型の自由というのは、単なる私生活上の自由とは異なり、その人が公的に働いているときにも常に他者からの目に入り、その人の印象を大きくづけます。その人の印象はその学校や職場での印象に大きくつながります。
髪型というのは、そもそも外部性があるので、プライバシーとしての価値があまり高くないというわけです。

また、たとえば強く保障されるべき妊娠の自由とは異なり、髪型はそれを例え強制的に一部切除したとしても健康を害したりすることもありませんし、一般的にはそれが思想の強制となることもごく稀なことです。

従って、髪型はプライバシーとしての価値が高くないということです。

以上のように、髪型の自由は、それ自体の自由ではなく、他者から干渉されない自由としてのプライバシーと捉えるべきではないか、というお話でした。

閲読ありがとうございました。


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