6月某日 煮込む
和歌山に行った。
グーグルマップさんには、同じ目的地でも毎度別のルートを提示されている気がする。しかも、所要時間が短いというだけの理由で、人間にはなかなかハードな道のりを選びがち。人間ではないので仕方ないのだが。
とはいえ人間より賢いと聞いてるし、人間ごときならこの道のほうが走りやすいよなあとか判断できそうなものですよね。もしかしてわざと?俺のこと嫌い?
今回はなんかえらい山道を長いこと走ることになった。戦々恐々で、まばゆい万緑にも大して見惚れていられなかった。
これを見てきた。
すごく良かった。前衛陶芸などの呼ばれ方をする作品群に、少しばかり距離を感じていたのは、実物を見てこなかったせいだと痛感。こんなに良いと思わなかった。
現代美術作家のオブジェ的な陶芸作品は多少見てきたが、それで現代陶芸を見た気になっていた俺は、本当に勿体ないことをしていたらしい。
オブジェや、あるいは彫刻とは、どうやら空間との関係が全然違う。器はその性質からして必ず空虚を抱え込むが、器とは全く異なる形態をとった前衛陶芸作品にもそのような空間との関係の結び方が仄見えて、これは面白い世界だと思った。
より古い時代のもののほうが気に入った。単に今回の展示にまとめられた作品の傾向でしかないのかもしれないが、どうにも時代が降るにつれて形態が自由でありすぎるように見える。どのような形でもありえる、と言い募っている。
その展開に追いつけるほどには、俺の理解がまだ足りていない。土の官能的な重力に縛り付けられ、陶芸の歴史とがっぷり四つで組み合っている時代の作品のほうが、ずっと見応えがあった。
以上、「茶碗ちゃうで」というポスターのキャッチコピーをフル無視の感想でした。
コレクション展も驚異的な充実度だった。展示の趣旨というわけでもない洋画が名作揃いで興奮。すごい美術館である。これで特別展と併せて500円ちょっとなんだから有難い限り。
松本竣介の《三人》という作品が見られたのは嬉しかった。鷲掴みにされて、目が離せなくなった。基本的に絵画はそれほど好きでないけれど、さすがにすごい。知的であり、かつ剥き出し。絵画という、何にも増して精神的な芸術の、最良の例の一つだと思った。
あと、初耳の作家なのだが、神中糸子の作品も印象的だった。目がいい人はもちろん、頭のいい人が見ても色々と切り出せる、複雑な絵なんじゃないか。俺は目も頭も悪いので、そういう気配がした、というのに過ぎないのだが。
俺としては、独特の方法で崇高を取り扱っているように漠然と感じられて気になった。いつかまとまった量の作品が見られる機会を得たい。
和歌山市内のパン屋に寄った。
ビューリーが信じられないぐらい美味しかった。とにかくクラストの香りが良く、クラムの風味も深い。
これから和歌山へ行く時には必ず立ち寄る。というかここを目的地にしたいぐらい。家から1時間半かかる場所に最高のパン屋を見つけてしまい、嬉しいような悔しいような。
俺と入れ違いで、部屋着風の兄ちゃんが店の前に自転車を停めて入って行き、羨ましすぎて掴みかかりそうになった。掴みかからなくて良かった。
美味しいパンを手に入れたので、近所の酒屋でワインを買って帰った。
どれにしようかと店内を歩き回って熟考している間、店員さんが常に俺を視界に入れる位置で着いてきた。万引きしそうな身なりで申し訳ない。万引きしないほうが悪いんじゃないかと錯覚を起こさせるぐらいの警戒度だった。
パンとワインがあるしと思って、珍しく料理をした。といっても、野菜と豚肉を軽く煮込んだだけなので、料理と呼べるのかはわからない。「計量」とか「検査」といったニュアンスの言葉のほうがたぶん近い。
一口食べて、うまくできた、と思った。冷静に味わえば全然失敗の出来だったが、自分の作った料理って温かければ美味いぐらいにハードルが下がるので。完璧主義とは程遠い、都合のいい頭で助かった。
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