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松屋町筋、壁、嘘



嘘のような稜線を見て煙草を吸っていた。





死についての小説ばかり書いてしまう。祖父の葬式にも出なかった人間なのに。
祖母の遺骨を「これ」と呼んでしまい、親戚を悲しませた人間でもある。
悪意はなくて、咄嗟にそう呼んだだけだった。




大雨の降る夜の松屋町筋を、車で走った。
フロントガラスに休みなく雨粒が弾けた。交通量の多い都会の道を、視界も悪いなかの運転だから、怯えてそろそろと進んだ。
ときおり空に稲光が走った。そのたびに助手席の友人と、光った、とお互いひとりごとのように口にした。
車の中には、雨とラジオの音がこもっていた。カラン、とグラスの氷が溶ける音。バーでの時間を演出したような番組だった。テレビでもラジオでも、その手のものってよくあるけれど、どれも長く続いていないような気がする。気がするだけ。
信号を待つ。しぶく路面を、車のライトと信号の光が染める。
なぜかふと、アメリカの映画を連想した。具体的な作品が浮かんだわけではなかった。ぼんやり、なんかこんな景色って見たことあるなあ、と思った。
それを話すと友人が「わかるよ」と頷いた。それから笑って「家着いたらおじいちゃん死んでるパターンやな」と言った。




兵庫県立美術館に行った。
行き帰りの車内ではマユリカのラジオを聞き、時間潰しの文庫本には村上春樹の小説を携え、図らずも神戸に本気で臨む人みたいになった。

目当てはタピエス。

なんでこんなに格好いいんだろう、と思った。
文字と形と、色と余白と、また時には絵具とそれ以外と、様々なレイヤーが折り重なって、一つの面が打ち立てられる。虚構の空間を構成するのではなく、これは一つの面でしかないと言い募るために、諸要素が使われる。


白髪富士子《白い板》も印象に残った。

白と反転する影、そこに通るひとすじの線。崇高への昇華からズレていく形態。
独特の浮遊感。すごい。最初は野外でのグループ展で発表されたとのこと。強い日差しの下で見れば、もっと素晴らしいだろうと思う。

不勉強で自分はこの作家を知らなかったのだが、キャプションによれば白髪一雄と夫婦とのこと。さらにウィキペディアを見れば「(一雄が)多忙となったことを受け、白髪は創作の衝動を「かなぐり捨て」、夫の活動の補佐に専念することを決める。」とある。いやはや。


展示を見終えた後、館内の美術情報センターという施設に入ってみた。美術書が書架にずらりと並んでいて、小さな図書館のようになっていた。
開催中の展示に関係する書籍のコーナーで、タピエスの図録を手に取る。ひもといてみると、壁、という文字が目に留まった。
そうか、あれは壁か、と腑に落ちた。視線に一切を晒しながら、それでいてその奥への視線を阻んでもいる、受容と拒絶の中間にある面。
そこに書き付けられた言葉を、俺はわからない。語学的能力の欠如、それもある。美術ないし歴史への見識の不足、それもある。けれど、どんな人にだって読めない言葉なのではないかとも思う。
かといって、寓意の類いではない。それは、砂埃や傷にまみれた街角の壁に走る、誰のものとも知れぬ落書きと同じように「ここに私とあなたがいる」と言っている。ただそれだけを、私とあなたの存在を、明確に突きつけている。

行きも帰りも下道で計3時間、美術館に滞在していたのが3時間と、出不精にはかなりタフな行程だった。
同日、近くの動物園で羊の毛刈りが行われるという耳寄り情報をキャッチしていたのだが、流石に諦めた。行き道に芦屋へ立ち寄って、南大阪の田舎者たる俺でも聞いたことあるようなパン屋を数軒巡りたかったが、それも諦めた。ハードスケジュールの合間に「素材からこだわったパン」の美味さなんてわかるわけないし。朝マック食べた。

さすがに3時間も運転して美術館しか行かないのも勿体ない感じがして、帰りに気合いでベルンという洋菓子屋に寄った。甲子園サブレとやらを買った。あいみょんも勧めるお菓子らしい。あいみょんが勧めるならまあ買うでしょ。
看板商品っぽかったので焼きドーナツも買った。俺はドーナツに目がない男なのだ。なにがいいってまず見た目がいい。架空の食べ物みたいな可愛さがある。
ドーナツだけが別格に好きで、スイーツ全般にはそれほど食指が動かなかったんだけど、最近好きになり始めている。
スイーツは生命の維持に全然要らなそうなのが面白いと思う。純粋に味覚の悦びのための物体。芸術的だ。それで言えば生命の維持に資する普通の食べ物は、芸術でなく芸能か。




あるタイプの表現について、自分はずっとわからない気がしている。嫌いとかではない。たんに知らない、縁がない。
たとえば、宮沢賢治が、俺はわからない。しばしば純粋という美的判断によって称揚されるものほど、自分にはわからない傾向がある。純粋さは、少なくとも俺にとって、近寄り難さとしてある。

純粋、自然、創造性……それらの語彙はほとんど必ずと言って良いほど、子どもという存在性に結びつけられる。
子どものようにつくること、子どものように見ること、子どものように楽しむこと、子どものように想像すること。
それは誰にでもわかるものだと言う。なぜなら誰にでも子どもだった頃があるから。かつての自分に戻りさえすればいいのだ、と。
そのような語り口に直面するたび、未だに慣れることなくそれなりの新鮮さで、私は驚きと寂しさとを覚える。
よく考えてみれば、誰が言っているというより、自分で勝手にそんなことを言われてる気になっているだけだ。それで驚いたり寂しがったりしているのだから始末に負えない。
しかしとにかく。
とりわけその手の純粋さが、芸術とやらの、あるいは人間のコアであるような言い方がなされる時、あちらとこちらの間に、なにか線引きがなされたのだと感じる。
そんな純粋とやらは、持ち合わせがないのだ。そういえば、大人と同じところで笑うと、周りの大人からよく言われる子どもだった。
俺は、イリュージョンよりは実在の知覚を、真実の告白よりは嘘を、美しく感じる。




「世の中ウソだらけ」的な、ありがちなコミュ障語りに、いつも些かの違和感を覚えてきた。
コミュニケーションが得意でないことは明白なのだが、そういう苦痛にはあまり馴染みがない。
過剰適応しようとするタイプなのかもしれない。過剰適応できるとは口が裂けても言わないが、あくまでベクトルの話として。
だからむしろ、「みんな正直すぎ」とばかり思ってきた。
社交辞令を言いたくないと思ったこともない。
社交辞令しか言いたくない。




金井美恵子「日記」を読む。これぞ短編小説という切れ味。
読まれるのを待っている日記と、それを読み解く人の話。昨今の日記ブームを「他人の日記を読む/他人に日記を読ませる」ブームと考えてみる(個人的に日記をつけることは昔からあるわけだから)。とすると、今こそ味わい深い小説かもしれない、なんて思う。




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