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大連への旅の脆い記憶



円安らしい。どういうことなのかは知らん。これは冗談ではなくマジで知らん。
高校時代、授業で教えられた円高だとか円安だとか色んな経済の話を全然理解できず、優秀なクラスメイトに説明してもらったが、優しい彼にも最後には匙を投げられた。それが俺という人間である。幼い子どものようになんでを繰り返す俺に、そういうもんやねんと珍しく声を荒げてそっぽを向いた彼を見て、悲しくなった。優しい人を怒らせるのはいつだって悲しい。

海外に行ったことのない友人が、いよいよ行くことに決めたのでとりあえずパスポートを取ると言う。
こんな円安とか毎日ニュースでやってる時期にかと混ぜ返したら、そんなこと言うてたらなんにもでけへんで、とのこと。確かにその通りだと思った。そういう大雑把な生き方を、自分だってしている。




海外には、一度しか行ったことがない。もういい、とも思う。一度行ってみたかっただけだから、一度行って、それでもうミッションクリアなのだ。
まず旅行にさして興味がない。消費する金と時間と体力の膨大さを考えると、なんだかとんでもないことのように思えて少しゾッとする。

何年も前に大連へ行って、それきり。
知り合いが仕事で行くのに着いて行った。パスポートの有効期限はまだ少し残っているような気がするけれど、パスポート自体がどこにあるのか見当もつかない。それこそ仕事などでしょっちゅう海外に行くのでもなければ、パスポートを失くさないって特殊能力だと思う。
知人の仕事相手が空港にまで迎えに来てくれた。日本人の、恰幅の良い初老の男で、金色の腕時計とネックレスをしていた。
えらくべっぴんな部下を連れていた。日本に留学経験があり、日本語が話せる。聞けば俺と同い年という、笑みが口元に張り付いた愛想の良い人だった。後に同席した会食で、冗談混じりに語られたところによると、彼の経営する会社では若くて綺麗な女性しか雇っていないようだった。あながち冗談にも聞こえなかった。
空港から、用意してもらったホテルまで、タクシーに乗って向かった。走行中、男はずっと電話をしていた。「攫う」とかなんとか剣呑な言葉がいくつも聞こえた気がしたけれど、聞き間違いだと信じて車の外の風景を眺めた。

初めての海外旅行でそれなりに浮かれてもいたものの、今ではもうほとんど断片的な風景しか思い出せない。
日本・ロシア風情街、見慣れた日本のそれと違いがほとんどわからなかったショッピングモール、高層ビルの林立する大通り。
少し裏道に入っただけで一変する景色、布団のシーツを軒先の紐に干している平屋建ての小さな旅館、古い褐色の団地群、道に面した窓々のそばにずらりと並んだ室外機。
団地と団地に囲まれた日向にテーブルを出して麻雀に興じる寝間着のような格好の老人たち。「ハイボール」「ウイスキー・アンド・ソーダ」が通じず、名前の知らない強い酒を訝しまれながら舐めた小さなバー。

発つ前に行きたい場所として考えていたのは一箇所だけだった。旅順刑務所である。ろくに調べておらず、会食の席でそのことを話し、かなり遠いと教えられた。
同行と車を用意すると、例の社長の男が言ってくれた。異国の電車に一人で乗ってみたい気もしたが、現地に詳しい人間の言うことを素直に聞いたほうが良いのは明らかなので、お願いすることにした。
翌朝ホテルのロビーで、空港にも出迎えに来ていた女性と合流し、車に乗り込んだ。
道中は、寝ては起きてを繰り返した。酒が残っていて、水をがぶがぶと飲んだ。
かなり長く走ったのをおぼろげながら覚えている。運転手の若い男のハンドル捌きも少しばかり荒かった。
たまに起きては酔い覚ましがてら外を眺めた。広い道路と、閑散とした田舎の町並みがあった。なにもないところに急に高層の建物があり、マンションだと教えてもらった。平均的な家賃なんかを聞いたような気がするけれど、全然覚えていない。
目的地に着く頃には、かなり二日酔いもましになっていた。
車を降りる時、運転手から「ここで日本語は使わないほうがいい」と忠告された。
同行の女性と一緒に、なかへ入った。彼女がどこの国の人か聞いていないと、その時に気がついた。今更聞くのも躊躇われた。
よく晴れていて、芝も煉瓦の壁も、明るく照り映えていた。

それなりに人出があって、俺にはわからない言葉が、其処此処で聞こえた。日本人らしき姿は見かけなかった。
キャプションも、当然読めない。同行の女性は訳そうとはしないし、俺も求めなかった。ふたりで黙って歩いた。彼女のほっそりとした横顔は、笑みが消えると少し老けて見えた。
この場所に来てなにを感じているのか、沈黙する面持ちから、読み取れようはずもなかった。やっぱり一人で来るべきだったかと思いながら、そそくさと歩いた。
両側に牢の並ぶ、長い廊下があった。立ち入り禁止の表示があったが、特別な予約をした人たちなのか、団体が列になって進んでいた。高い天窓から光が降り注いで、彼らの髪を明るく染めていた。それはどこか、巡礼を思わせる光景だった。彼らのゆるやかな足取りの先を、一匹の小さな鼠が駆けていくのを見た。

旅順刑務所を後にしてからまたタクシーに乗り込み、昼食を取ることになった。
彼女が案内してくれたのは、水師営会見所の隣にあるレストランだった。食事前に会見所を見て回った。こちらは旅順刑務所と打ってかわり、日本人の団体しか見かけなかった。ここに案内した彼女の心の内を、俺は測りかねた。日本人が来ればとりあえず連れて行っておけば良い、という場所だったのかもしれない。レストランの客も、日本人ばかりだった。
彼女が注文した多すぎる料理は、どれも口に合った。話はそれほど弾まなかった。たしか『君の名は』が中国でも流行っているという話なんかを聞いたのだったか。

その夜にも会食はあったが、酒がまだ残ってると言って断り、ホテルの部屋で過ごした。
やけに天井の高い部屋で、ベッドに寝転がっていると、その遠い白へ吸い込まれそうな感じがした。
夜中にルームサービスのクラブハウスサンドを食べた。テレビを点けてみても、なにを話しているかわかるはずがないのですぐに消した。
壁の一面が分厚いガラス張りで、大連の夜のきらめきが広がっていた。音は届かなかった。見渡す限りでこぼこの高さのビルばかりで、風が吹いているのかどうかも見えなかった。
一瞬、自分がどこにいるのか、あやふやでいた。いや、より正確には、この世のどこでもない、空白の場所に身を浮かべているような感じにおそわれた。日本・ロシア風情街が、方角もわからない夜景のどこかにあるのだと思った。テーマパークじみて見えた、実在する架空の、あの風景が。
ごわごわとしたパンを、喉にひっかかりを感じながら飲み込んだ。




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