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日本の内ゲバは鎌倉幕府から(5)-義時の疑念-

西暦1205年(元久二年)6月22日午後、鎌倉幕府の創業期を支えた忠臣・畠山重忠は、鎌倉より出兵要請を受けて軍勢率いて鎌倉にむかうところ、武蔵国二俣川付近で、北条義時率いる一万騎と合戦になり、一族もとろも討死しました。

これは「畠山重忠の乱」という歴史用語になっていますが、これをキッカケに北条時政とその嫡男・義時の間に微妙なズレが生じ始めます。

義時の報告

重忠を討った義時は、同日未の刻(午後2時前後)、鎌倉に帰着しました。義時は軍装のまま政所に向かい、父・時政に重忠の最期を報告しています。

時政は「戦いはどうであった?」と義時に尋ねたところ、義時は時政を冷たい目で見ながら

「畠山重忠殿が率いていたのは僅かに百騎少々の軍勢でした......」

と独り言のように呟き

「鎌倉殿(将軍実朝)は重忠を謀反人とし、そのために誅せよ(殺害せよ)と仰せになられた。しかし、たかだか百騎そこそこの軍勢でこの鎌倉が落とせるものか。そんなことは重忠殿なら百も承知のはず。私は重忠殿の軍勢を見てすぐに『これは濡れ衣だ』とすぐにわかった。しかし、鎌倉殿の命には逆えない。気の毒ではあるが討ち滅ぼした.....」

と言いながら泣き崩れました。

「わかるか、父上。この義時が忠臣として敬い、東国武士の鑑とまで称された人物を、友人として一緒に戦ってきた友を首実験で検分しなければならないことが、どれだけ苦痛なことか.....」

時政は瞑目し、だまって義時の言葉を聞いていました。

「これが......これが泣かずにいられようか!」

義時は拳でガンガンと政所の床を何度も叩きました。
時政は義時が嗚咽をあげるだけの状態になったのを待ち、目を開くと

「相模守、役目ご苦労だったな」

とだけ言って、奥にひきました。
義時はその場に蹲り、ただ嗚咽をあえげているだけでした。

三浦義村の暗躍

その日の夜、義時の屋敷に弟・時房が「兄者、大変だ!」と言いながら駆け込んできました。時房が来た時、義時は重忠の死を悼み、自室で酒を呑んでいました。

時房の話によると、稲毛重成(畠山重忠の従兄弟)とその弟・榛谷重朝とその息子・重季、秀重の計4名が、相模の御家人・三浦義村らに討たれたというのです。

「いったいどういうことなのだ?」

義時はいっぺんに酔いが覚めて時房に噛みつきました。

「俺も詳しいことはわからんのだ。ただ、この事が起きる前、平六(義村)殿が政所に行っているらしい、これが何か関係しているのかも」

「政所に?しかし、平六殿は御家人だ。父上が平六殿に直接命令を下すことはできないはず」

義時は少し何か考えていましたが

「ここで議論してても始まらん。取り急ぎ平六殿の屋敷に行くぞ。五郎(時房)ついてこい」

義時は取るものもとりあえず、時房と共に三浦義村の屋敷を尋ねました。

三浦義村は、相模国三浦(神奈川県三浦郡)を領地とする御家人で、父・三浦義澄は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の再起の際に麾下に加わり、頼朝を支え続け、頼家時代にも「十三人の合議席」の一席を占めていました。義村は義澄の子で、この時、家督を継いでまだ6年目ぐらいでした。

また、鎌倉幕府を構成する御家人は、原則として将軍と主従関係を結んでいるため、原則として将軍の命令でなければ御家人は動きません。侍所別当や政所別当であっても自分の意思では命令書を発行することはできなかったのです(あくまでも当時はです)。

当時の義時の屋敷は現在の「タイムズ鶴岡八幡宮前」あたりと考えられており、義村の屋敷は横浜国立大学附属鎌倉中学校の敷地あたりにあったと言われています。この間の距離を考えると、おそらく徒歩で3−4分ぐらいだったでしょう。

義時と時房が義村の屋敷を訪れた時、義村も酒を呑んでいました。
義村が二人の来訪を知ると、喜んで屋敷の中に入れ「一緒に呑め!」と言ってくる状態でした。

義時は挨拶もそこそこに

「平六殿、そなた、稲毛入道(重成)、そして榛谷四郎とその子息を討ったというのは本当か?」

と切り出しました。時房は「兄者、ちょっといきなり....」と嗜めますが

「ああ、討った。ただ、俺が殺したのは榛谷四郎とその子息だけだ。入道を討ったのは大河戸三郎と宇佐見与一だ。」

とあっさり義村は答えました。

「なにゆえじゃ」
義時が重ねて問うと、義村は「チッ」と舌打ちしながら

「おまえのためだぞ。小四郎」
と答えました。

「私のため?」

「ああ。重忠殿を討って鎌倉に戻って、兵を家に帰した後、政所から遣いがきてな、別当殿(時政)が俺に会いたいと」

「父上が?」

「それで何事かなと思ったわけさ。政所を訪れると別当殿は酒を飲まれていてな。重忠殿に献杯を捧げてたところだった。まぁ、そこで一緒に語りたくなって俺を呼んだらしい」

「それと私とどういう関係が......」

「まぁ、聞け」
義村は義時の言葉を遮り、酒を手酌で注いで、盃を一気に飲み干すと

「小四郎、お前、親父さんを罵ったらしいな。重忠殿は無実だと。誰かに嵌められたんだと。鎌倉殿の命令だからやむ得ず殺したんだと」

「......」
義時は無言で首を縦に振りました。
義村はそれを見て「フッ」と不適に笑うと

「別当殿は随分それを気にしていたぞ。息子に怒られたと言ってな」

「しかし、それは......」

「俺もちょいと気になったんで、なぜ重忠殿になぜ謀反の嫌疑がかけられたのか別当殿に聞いてみたのさ。そしたら、重忠殿の謀反は、稲毛入道の讒訴が原因だと言うじゃないか」

「なんだって?」
義時は思いもしないことを聞かされ、唖然としました。
義村は義時に酒を薦め、義時も盃を差し出します。

「知っての通り、稲毛入道は重忠殿の従兄弟だ。重忠殿は武蔵国総検校職という武蔵国の御家人に命令できる武力行使権限を持っている。入道殿はなんとかしてそれを我が物にしたいと思ったようだ」

義村は酒を注ぎながら、話を続けます。

「武蔵国の国守は平賀朝雅殿だが今は京都守護の任務を帯びてご本人は京の都だ。よって武蔵国の行政は今は別当殿が代行している。入道はそこに取り入って、総検校職を重忠殿から奪うため、あることないこと別当殿に申し上げたらしい。別当殿はそれを鎌倉殿に取次、誅伐の命令が出た」

「まさか......」
義時はそう言って、盃を煽りました。

「今となっては真偽はわからない。が、重忠殿を鎌倉に向かわせたのは間違いなく入道だ。それは確かだ。ま、とにかくだ。この後味悪い事件はすべてあの入道が仕組んだことと聞いて、小四郎、お前、許せるか?」

「許せるわけがない」

「だろう?。俺もカーッとなっちまってな。ちょうどその頃、別件で政所にきていた大河戸三郎と宇佐見与一を巻き込んで、入道の縁者を誅殺しようという話になったのよ。ま、重忠殿の供養のためってところだな」

「それで殺したわけか。本当に入道の讒言かどうかもわからずに殺したのか」

「讒言が本当かどうかわからないのに重忠殿を手にかけたお前がよく言えるな」

「平六殿......」

「いずれにせよだ。重忠殿は無実の罪を着せられた。その黒幕は稲毛入道だった。そしてその入道および縁者は誅殺された。で、我々はいまここにいて、供養の酒を飲んでいると」

ここでそれまで黙っていた時房が初めて割り込みます。

「あのー......ということは、平六殿は自分の意思で稲毛入道と榛谷四郎とその子息を討とうと思われたということですか?」

「そうだよ。おい、五郎(時房)、今の俺の話、ちゃんと聞いてたらわかるよな?」

「もちろん聞いてましたよ。しかし、父上が平六殿を政所にお呼びになったのは、鎌倉殿から平六殿に何らかの密命が下されたのではないかなと」

義村は「はぁ〜」っとため息を吐きながら、時房を諭すようにして言いました。

「あのな。御家人は鎌倉殿の命令でないと動かない。それはわかるな?。重忠殿を討てと小四郎に命じたのは鎌倉殿だ。この上、あれは間違いだった、実は本当に討つべきは稲毛入道と榛谷四郎だった、とは腹が裂けても言えないだろう」

そこまで義村が行った時、義時が不意に

「なるほど。そういうことか.....」

と呟きました。

「兄者?」

時房が義時に声をかけますが

「平六殿、夜分に押しかけてすまなかった。邪魔したな」

と言いながら頭を下げて帰ろうとすると

「おい。小四郎」

と義村が呼び止めました。

「わかっていると思うが、この件はこれでおしまいだ。いいか。下手に蒸し返すようなことをするなよ。わかったな」

と凄い形相で義時を睨みながら言いました。
その対し、義時はニッコリ笑うと

「ああ、わかってるよ。帰るぞ五郎」

と、時房を連れて義村の屋敷を出ました。

疑念

義時と時房は義時の屋敷に戻ると、酒と肴を用意するように家人に伝え、奥の間に入りました。家人が酒と肴を持ってくるまで義時は一言も喋らず、じっと瞑目して上座に座り、時房は脇に座りました。

家人が酒と肴を持ってくると「酌人はいらん。誰もここに近づけるな」と言い渡し、板戸を閉めました。

「兄者、いったいどうしたのだ」

時房が義時に尋ねると、義時は時房に酒を薦めながら

「お前、平六殿の話をどう思った?」

と聞きました。
いきなり聞かれた時房は狼狽しながらも

「え、いや、別に何も......平六殿が稲毛入道に対し敵意を持つのは当然ですし、重忠殿を嵌めたのなら、天罰と思うべきではないかと」

と答えて、盃を飲み干しました。
義時は軽くうなづくと

「確かにな。しかし、これで重忠殿謀反の罪はすべて稲毛入道の讒訴が原因になったわけだ」

と言いながら、自分の盃に酒を注ぎ、一気に飲み干します。
その言い方に時房はひっかかるものを感じました。

「原因になった?」

時房の質問に、義時はまた時房の盃に酒を注ぎながら言います。

「ああ。平六殿の話を聞いていて、私はそう思った。重忠殿は人格者だ。その重忠殿が謀反人と聞いて、疑問に思う御家人は重忠殿が討たれた今でも、なお少なくないだろう。そして父上の前で讒言であることを私自身が言ってしまった。その時、父上は『思いついた』のだ、この謀反を誰かのせいにできないかと」

時房は飲もうと思っていた盃を口につけるかつけないかとのところでピタッと止めました。

「ちょっと待ってくれ兄上。それだと父上が稲毛入道を嵌めたことになりますが」

「だから、父上が『思いついた』と言ってるだろう」

「まさか......」

時房は止まっていた盃を飲み干しました。

「さっきの平六殿の話は、稲毛入道が重忠殿から総検校職を奪いたかったという野望から始まっている。が、それが稲毛入道ではなく、父上だったとしたらどうだ。」

「あ.......」
義時の盃に酒を注ごうとした時房の手が止まりました。

「父上は武蔵国の国守代行。しかし軍事指揮権だけは重忠殿が保持している。あの国で父上の自由にならないのがそれだ」

「だからと言って、讒言するなど」
言いながら義時の盃に酒を注ぐ時房。

「そこだ。確かに私もそれは筋が通らないと思った。しかし、五郎、お前が以前言っていたことが、それを確信に導いたのだ」

「え?俺?」
時房は自分が何か言ったかしら?と思いましたが、ふとあることを思い出しました。

「まさかとは思うが、父上は先年の左馬助(政範)の死が畠山六郎(重保)殿のせいだと思っているのでないでしょうか?」

「左馬助の死......」

時房が独り言のように呟きました。
義時は盃を開けて言いました。

「そう。真相はわからんが、左馬助の死には重忠殿の嫡男・六郎殿が絡んでいる可能性がある」

「だけど......」

「さらに死んだ左馬助は、牧の御方の唯一の男子だ。私はもしかすると『この件には牧の方が何らかの形で関わっているのではないか』と思えてならんのだ」

牧の御方とは、北条時政の継室であり、政子、義時、時房にとっては「継母」にあたります。時政と牧の御方の間には4人の子供がおりますが、男子は亡くなった左馬助政範だけだったのです。

「自分の息子が京都で変死して、さらに娘婿(平賀朝雅)と口論したのが畠山六郎殿。で、翌日、息子の左馬助が急死。牧の御方が畠山氏を恨むのは筋違いかもしれませんが、確かにあり得ない話ではないな.....」

「だが、今の段階ではあくまでも推測と状況証拠だけだ。決め手がない。だから私はこのことを、もう少し調べてみるつもりだ」

「え、ダメですよ兄者、平六殿から止められたでしょ」

「平六殿が止めたのは畠山重忠殿の謀反とそれに付随する稲毛入道、榛谷一族のことを蒸し返すことだろう。今、我々がここで話をしているのは『我が北条家の内部の話』だ。三浦の者に口を出す権利はない」

と言いながら時房の盃に酒を注ぐ義時。

「いいのかなぁ......どうなっても俺は知りませんからねぇ」

と飲みながら言い捨てる時房でした。

「畠山重忠の乱」は、義時が父・時政の行状に初めて疑念を持った出来事となったのです。












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