日本の内ゲバは鎌倉幕府から(2)-梶原景時の変-

第2回でございます。
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さて、東国独立政権(鎌倉幕府)を作った源頼朝ですが、その死因には不明なところが多く、とりあえず落馬説が一般的なのかなと思ってます。病気による薨去であれば、後継体制など然るべき準備が進められるはずなのですが、嫡男である頼家が頼朝の後継である二代将軍(征夷大将軍宣下)を受けるのが、頼朝が亡くなってから3年後の西暦1202年(建仁二年)であることから、どうみても頼朝の死は想定外のことだったと推測できます。

頼朝が亡くなったのは1199(建久十年)年1月13日。その1週間後の20日に頼家の官位は右近衛権少将から左近衛中将に昇任します。ですがまだ18歳ででした。鎌倉幕府の基礎も未だ固まっているとはいえない状況において、18歳の少年が鎌倉幕府のトップを取るということは、そこに従う御家人の不安はいかばかりだったでしょうか。

比企氏

頼家のことを語るのに比企氏を外して話すことはできません。またこの比企氏の存在が序盤の鎌倉幕府の内ゲバに関わってくるので、ここで比企氏についてご説明いたします。

比企氏は、鎮守府将軍・藤原秀郷(別名:田原藤太/平将門を討った男)の血統で、その末裔である比企掃部允の妻(比企尼)が源頼朝の乳母でした。

掃部允夫妻は武蔵国比企郡(埼玉県比企郡および東松山市一帯)の代官となって現地に赴任し、そこから伊豆に流された頼朝に約20年間物資を支援したと言われます。

頼朝は伊豆の小豪族である北条時政の娘・政子を妻とし、政子との間に嫡男・頼家が生まれると、比企尼は甥である比企能員を猶子として比企氏の家督を継がせ、頼朝に能員を頼家の乳母父に推挙しました。

この辺りから、頼朝の外戚・北条氏と頼朝の強力な支援者・比企氏の争いが始まっていると私は見ています。

一方、比企氏の家督を継承した能員は、非常に有能で、頼朝にも高く評価されていました。彼は信濃国と上野国の守護も務め、奥州合戦でも将軍として軍功を挙げ、1190年(建久元年)頼朝が右近衛大将叙任の際には供奉し、右衛門尉に任官しています。

また、1198年(建久九年)、能員の娘・若狭局が頼家に嫁ぎ、嫡男・一幡を出産しました。これで比企氏は頼家の外戚の地位を得たことになります。

そしてこの翌年、頼朝は急死します。源氏の家督を継承した頼家の後見役ポストには当然のように比企能員が入り込むことになりました。

十三人の合議制

北条時政は頼朝の妻・政子の父であり、頼家にとっては祖父にあたります。時政は息子の宗時(石橋山の戦いで戦死)義時と共に頼朝の鎌倉幕府創設を支え、一時期は京都守護(六波羅探題の前身)を任されていました。

しかし、頼朝と違って、頼家の周囲は比企氏の縁者で固められており、北条氏の付け入る隙はありませんでした。

また、頼家が二代目の「鎌倉殿」になっても、侍所別当(御家人統括と軍事を司る部署の長)は梶原景時、政所別当(行政を司る部署の長)は大江広元、問注所執事(訴訟担当部署の長)は三善康信といった具合で、執行機関のメンツが変わらなかったことから、御家人の間で不満が起き始めていました。

また18歳の頼家が独断で将軍親政を行い、裁断する内容の不満もあいまって鎌倉を取り囲む空気は不穏なものがありました。

時政はこの御家人の不満を利用して、1199年(建久十年)4月、頼家による直接の裁断を禁止し、有力御家人13人の合議制により決定する方向に持って行きました。頼家が鎌倉殿になって約3ヶ月後でした。

これが、有名な「十三人の合議制」です。
2022年(令和四年)から始まる大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はこれがテーマになっています。
そしてこれがのちの鎌倉幕府の「評定衆」の原型になります。

これについての意図は色々あると思いますが、時政としては、比企氏の台頭に一定の歯止めをかけるために仕掛けたものであると思われます。この十三人の中には、大江広元、三善康信、中原親能など頼朝時代から続く文官官僚や梶原景時や比企能員も一員になっているところがミソですね。

しかし、将軍権力を制限されて黙っている頼家ではありませんでした。頼家は近習五人を取次役として、この五人からの取次以外は受け付けないという反抗活動を開始します。

梶原景時への弾劾状

西暦1195年(正治元年)10月25日、御家人・結城朝光(結城城主/下総結城氏初代)が幕府内の侍所でポソっとこぼした一言から、一大事件が勃発します。

朝光は

「『史記』曰く『忠臣、二君に仕えず』というが、先代の鎌倉殿が亡くなられた時に自分も出家してそうするべきだったと悔やまれる。なにせ、今の世は薄氷を踏むような思いで生きざる得ないからな」

と述べたのですが、それから数日後の同月27日に、朝光は阿波局(政子の妹/頼朝異母弟・阿野全成の妻)から「あなたの発言が謀反の証拠であるとして梶原景時が鎌倉殿(頼家)に讒言し、あなたは殺される事になっています」と告げられます。

当の朝光からすれば「はあああああ?」みたいな気持ちだったに違いありません。しかし、梶原景時は御家人を統括・管理する部署「侍所」の責任者。そして彼の讒言によって糾弾されたり、無視されたりした、謀反の疑いをかけられた御家人は少なくありませんでした。そしてそれが頼家に伝わっているとなると、正直、シャレになりませんでした。

朝光はまず、有力御家人の一人である三浦義村(相模国三浦領主・三浦義澄の子)にこのことを相談しました。話を聞いた義村は「これはえらいことだ」と驚きましたが、しかし「逆に考えれば、奴を失脚させるチャンスかもしれない」と考えました。そこで、同じ一族でもある和田義盛(前侍所別当/三浦氏庶流)も巻き込んで、梶原景時に対する署名血判の弾劾状を作成し、景時を排斥することを考えました。

義村と義盛は10や20の御家人の署名でもあれば良いと考えていたかもしれません。が、蓋を開けてみれば、千葉常胤、土肥実平、三浦義澄などの幕府創設の功臣から、頼朝の側近だった安達盛長、工藤行光、天野遠景。また十三人の合議制に連なる者たちの大勢が同心し、総勢66名の御家人がこの弾劾に加わりました。

66名の御家人は10月28日、鶴岡八幡宮に集まった後、政所公事奉行人である中原仲業(中原親能の家臣)によって一晩で制作され、義村と義盛によって政所別当・大江広元に提出されました。

弾劾状を読んだ広元は、これを頼家に出せば景時が失脚するのは必至なのが明白でした。しかし、景時は性格に難はあるが仕事はできる人物であり、彼を失うのを惜しいと思い、弾劾状をしばらく自分のところで留めていました。そのうち「あれはやりすぎだった」と言ってくる御家人がいるのではないかと考えたのです。

しかし、何日経っても将軍から全く音沙汰がないことから、和田義盛が不審がって広元に尋ねると

「あー、あれね。他にやらねばならないことがあって、まだ鎌倉殿には出していません」

という返答だったので

「そなたは亡き先代の御所(頼朝)様の時代より、関東の宰相として、長年働いて来られ、御家人たちもそなたの申すことに従ってきた。それはそなたの申すことに理が通っておったからじゃ。しかし、今のそなたは景時の権威を恐れて諸将の鬱憤を隠し立てしておる。それは道理に違えることなのではないか?」

と問いただし、その上で

「これには結城朝光殿の命がかかっております!速やかに鎌倉殿に上申せされたし!」

と毒づいて来たので、広元もこれ以上の時間稼ぎはできないと悟り、頼家に上申しました。

11月12日、頼家は弾劾状を景時に見せ「申し開きがあるなら申せ」と弁明を聞こうとしましたが、景時は

「申すことは何もございませぬ。事、ここに至っては、それがしが鎌倉にいること自体が問題でございましょう。それがしは領地に戻って謹慎いたします」

と言って、鎌倉を去り、相模国一宮(神奈川県高座郡寒川町)に蟄居しました。この行為で御家人たちは溜飲を下げたので、翌12月には景時は鎌倉に戻ってきています。

梶原景時の謀反

鎌倉に戻ってきた景時の目的は、頼家からの赦免でした。御家人たちも溜飲を下げたため、再び公務に就くことを望んでいました。しかし、今度は梶原景時自身に謀反の疑いがかけられます。景時は頼家に対して

「御家人の中には鎌倉殿を廃して、御舎弟殿(千幡/後の実朝)を次期将軍におつけしようと企む者がおります」

と進言しました。

この時(西暦1199年)の頼家の立場は、源氏の家督継承者ではあるものの、朝廷から征夷大将軍の宣下を受けていません。景時の発言は頼家の不安定な立場を引き立たせ、頼家に揺さぶりをかけるものに見えました。

頼家は「その者の名をあげよ」と景時に命じましたが、景時は「あくまで噂であり、真偽はわかりませんが」と前置きした上で数人の名前をだし、その者らと景時が対峙したところ、逆に景時が言い負かされ、これがいわれのない讒言であることが明らかになってしまいました。

こうなってしまっては頼家も景時を庇いだてすることはできません。結果として景時は12月18日に鎌倉追放の処分となり、鎌倉の景時の屋敷は取り壊されてしまいました。

梶原景時の変

西暦1200年(正治二年)1月20日、景時は武装して一族郎党を引き連れ、相模国一宮を出立。上洛の途につきます。

もちろん、これは幕府は全くあずかり知らぬことです。

が、鎌倉を追放された景時がこのまま引き下がるはずもなく、必ず何か仕掛けてくると読んでいた人間がいました。北条時政です。

この時、時政は伊豆、駿河、遠江(現在の静岡県)の三国の守護に任じられており、景時の領地である相模国とは隣接していました。そのため、景時追放後は国境付近の警戒を強めていました。

また、時政の嫡男である義時は、鎌倉郡飯田郷(横浜市泉区)の地頭職・飯田家義に命じて、景時の行動を見張らせていました。

駿河国吉川荘(静岡県静岡市清水区)に勢力を張っていた吉川友兼(安芸吉川氏初代)は、飯田家義と連絡を取ると、駿河の在地武士に呼びかけ、同国清見関付近で景時の一行を待ち伏せて、これを襲撃しました。

景時一行はこれに応戦しましたが、景時の息子たちである三郎景茂、六郎景国、七郎景宗、八郎景則、九郎景連が次々に討たれ、景時本人、嫡男・景季、次男・景高山(現在の梶原山公園/静岡県静岡市葵区長尾)に逃れましたが、じきに討ち取られて晒し首にされています。

鎌倉幕府創設の功臣の一人である梶原景時は、こうして歴史の表舞台から消え去りました。

梶原景時の変のその後

梶原景時は侍所別当として御家人を監督する責任を持っていました。また自身の傲慢な性格とあいまって、言いがかりや讒言を行い、不必要に御家人の怒りを買っていたことは間違い無いようです。でないと66名もの御家人が彼の弾劾に協力するとは思えません。

ただ、景時自身が本当に謀反を企んでいたかどうかは正直、疑問です。というのも、自らの権力の源泉が、自らの勢力ではなく「鎌倉殿」「侍所別当」によって成り立っていることを彼自身が理解しているはずだからです。

この変事の元々のキッカケは、阿波局が結城朝光に「あなた讒言されて殺されちゃうわよ」と囁いたことにあります。阿波局は北条政子の妹で、時政の娘です。そして梶原景時が討たれた駿河国は時政の守護国であり、時政嫡男・義時も見張りとして飯田家義をあてがっているところを見ると、これは最初から時政の謀略だったのではないかと思えてなりません。

景時に「頼家を廃して実朝を次期将軍に擁立する計画がある」などと嘘の情報を時政ら北条氏の者が与えていたのだとすれば、景時がなぜあんなことを言い出したかの謎が解けます。

ただもう1つの謎が残っています。それは「なぜ景時は上洛しようとしたか」です。一族郎党を連れての上洛は、出奔に等しい行為です。この時代、朝廷と幕府が相応の権力を持って並び立っていることを考えると、景時は幕府を見限り、朝廷の武士として生きる道を選ぼうとしたのかもしれません。

しかしながら、時政にも「景時に対してそこまでする動機はなんなのか」という新たな疑問が生じます。考えられるとすれば、頼朝時代から続く梶原景時、大江広元、三善康信という三役の一角を崩し、頼家体制に風穴を開けたかったのかもしれません。

梶原景時の変の後、景時が守護を勤めていた播磨国は結城朝光に、美作国は和田義盛に与えられています。また、和田義盛は景時の死後、侍所別当に復帰しています。

景時一行を襲撃した吉川友兼は、景時三男・景茂を討ち取ったものの、自分も手傷を受け、間も無く死亡したため、嫡男・吉川朝経に恩賞として播磨国揖保郡福井荘(姫路市勝原区、網干区、大津区あたり?)が与えられています。

また飯田家義にも駿河国大岡(沼津市)の地頭職が与えられています。

そしてこれと関係するかどうかは不明ですが、同年4月、北条時政は朝廷より遠江守に任じられています。これは鎌倉幕府に従う御家人の中で初めて朝廷より国司に任じられたケースであり、時政および北条氏の家格を高めるのに有効に働きました。

この梶原景時の変は頼朝死後の最初の内ゲバでした。これ以降、御家人間で様々な亀裂が生じ、さらなる内ゲバが多発することになるのです。

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