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解氷 1/3

 私は「春」が嫌いだった。私の人生の歯車を狂わせた忌むべき存在。そう、それはあの時のことだった…

私、亜沙美は6年間もの小学校生活を犠牲に手に入れた県内トップの中高一貫校への切符を片手に、新しく始まる学校生活に心を踊らせながら学校へと続く川沿いの道を歩いていた。日本全国で見ればさほど大きな川ではないが、釣りをする人や犬の散歩をする人で賑わう程度の河川敷があり、また春にはたくさんの桜が咲くために地元ではお花見スポットとして有名であった。物心ついた頃から学習塾に入れられていた私は、当然お花見をするような時間など存在しなかったためこれまでこの河川敷とは無縁な生活を送ってきた訳だが、晴れて志望校に合格し、これから毎日河川敷沿いの満開の桜の下を通って登校できることはとても新鮮で感慨深いものがあった。こうして始まるはずだった私の中学校生活であったが、桜並木を進むこと数分後に突如としてひどい頭痛と目眩に襲われて意識を失ったことにより、あっけなく音を立てて崩れ去っていった。親切な通行人が救急車を呼んでくれたようで、目を覚ました私が最初に目にしたものは見覚えのない無機質な天井ー気づけば私は病院のベットの上だった。

これから交友関係を広げていこうという時期のスタートダッシュに大失敗した私は初日だけでなく、この原因不明の頭痛が原因でとうとう梅雨明けまで登校することが叶わなかった。5月初めに行われる体育祭、6月初めに行われる合唱祭に参加することのできなかった私が梅雨明けに登校したところでもうクラスに居場所などなく、血の滲むような小学校6年間の努力の結果手に入れたものは行き場のない怒りと途方もない虚無感だけだった。病院の先生曰く、私の身体には驚くほど何の異常もないようで、強いて言えばスギ花粉のアレルギー反応がある程度だそう。花粉症に悩まされる日本人など星の数ほど存在し、実際病院の先生も毎年何百、何千といった患者さんを見てきたが突然意識を失ってしまうほどの頭痛が起こった例など一件もなかったようで手の施しようがないと言っていた。私は自分の身に何が起こっているのか全く理解できず、お門違いだと分かっていても私の人生を滅茶苦茶にした「春」という季節を恨まずにはいられなかった。

 私が学校に通えるようになる前には二度の定期考査があったのだが、入院生活が長引いてしまいどちらも受けることができなかった。ところが、1日中意識がないのではなく、登校しようと河原を歩いていると急な目眩に襲われて意識がなくなってしまっていたので、入院生活を送るようになってからベットで勉強をするだけならば特に支障はなかった。とはいえ学校には通えていないので、周りのレベルにはついていけないのではないかという不安を拭い去ることは出来なかったが、いざ登校するようになっても勉強面で遅れをとることはなかった。幸い休んでいた時の定期考査の追試を受けた際にも高得点がとれていたので、退学や留年の心配ないようでひとまず安心した。

私が学校に通い始めて3週間が経過し、ようやく学校生活にも慣れ始めてきたところで終業式があり、夏休みに突入した。例の頭痛や目眩はあの時以来全く起こっておらず、定期通院はしているものの薬をもらうわけでもないし、実際のところはただ単に先生に近況報告をするだけだ。しかし先生はどうにも心配なようで、部活はやめておけとのことだった。この意見には私の母も賛成していて、私自身もクラスにさえ馴染めていないこの状況で新たに心の傷を作りたくはなかったので、積極的にどこか新しいコミュニティに参加しようなどという気力は湧いてこなかった。これから1ヶ月半ほどの間、また誰にも会わずひたすら家で勉強をする日々が始まるんだと思うと全てがどうでもよく思えた。

 元々学習塾に通い始めたのは、教育熱心な母が私に中高一貫に合格させるためであったので最初は嫌々通っていたのが、いつしか勉強をするのが当たり前になり、気づけば私は志望校合格以外に興味がなくなっていた。こうして過ごしてきた間には趣味と呼べるものは何もなかったため、夏休みといえど勉強以外することがなかった。流石に不憫に思えたのか、母はちょうどどこかで貰ってきたのであろうチラシに載っていた近所の図書館のボランティアにでも行ったらどうかと勧めてきた。正直この膨大な期間の過ごし方について途方に暮れていたところだったので、一つ返事で応募した。

普通の中学生であれば、部活やら交友関係やらで毎日が充実しているはずなので、当日ボランティアに参加してみたところ中学生での参加者は案の定私の一人だけだった。親同伴も可能なので、例年は親子連れなんかもいるようなのだが、今年は私の母と同い年か少し上であろうくらいの年齢の女性だけがもう一人の参加者だ。「よろしくお願いしますね」と言って微笑んだその女性は、たかだか数日間しか関わらないはずの私に対してもとても柔らかい笑顔で接してくれたためすぐに仲良くなり、そのボランティアの期間が終わったあとにも何度か近所の喫茶店でお茶をするような関係にまで発展した。

"沙夜"と名乗ったその女性は若い頃に不倫が発覚した夫と離婚し、現在は一人で暮らしているのだと言う。年齢的に私くらいの娘がいてもおかしくない、ということで私のことは「亜沙美ちゃん」と呼んで可愛がってくれている。現在、教育熱心な母親との関係はお世辞にも良いと言えるものではなく、母に話しにくい話をした時であっても親身になって話を聞いてくれていて、時には「辛かったね」と言って涙を流していた。赤の他人の私に対してこれほど良くしてくれている人のことを裏切れるなんて最低な男だな、と一度もあったことのない沙夜さんの夫を呪ったりもするほどには私も沙夜さんのことを好いていた。

 夏休みが明け学校が始まると慌ただしいとまでは行かずとも、予習復習に追われ必然的に沙夜さんと会う時間は減り、夏休みには週に一度は会っていたところが落葉樹の葉が全て落ちる頃には月に一度会うか合わないかという程度になってしまっていた。そんなある日の学校の帰り道、河川敷でばったり犬の散歩をしていた沙夜さんと会った。久しぶりにあったこともあり、河川敷に座ってお互いの近況なんかを伝え合った。これまでにも何度も河川敷を通って下校していたが、今回が初めてだったのは今日の散歩がいつもの時間よりも少し早かったかららしい。沙夜さんの家は学校の近くだと聞いていたが、実際に足を運んだことはなかったので特に疑っていたわけではないがやっぱり近いんだなと思った。

お互いが一通り話し終えたところで間があくと、少し寂しそうな顔で
「ここから眺める景色が好きなの。」
と沙夜さんは言った。私がどうしてですか?と聞こうと思ったところで沙夜さんは続けた。
「昔、初めて夫とデートしたのがここの河川敷だったんです。頭上には桜が満開で足元にはアザミが咲いていて見渡す限りがピンクだった春に、二人でお弁当を食べながらお花見をして…。やっぱりあんなことがあっても楽しかった思い出って忘れられないんですよね。あんなに憎んでいたはずなのに、どうしてもこの河川敷に気づいたら来てしまう。」
そう言った沙夜さんの目には様々な感情が入り混じったような涙が溜まっていたが、私がいる前では泣くまいと我慢しているようだった。私が散々春にあった辛いことを話した手前、言おうかどうか迷った間だったんだなと思ったが、沙夜さんの話を聞いてあげられるのは自分しかいないんだと思ったら不思議と腹は立たなかった。つまらない話をしてごめんなさいねと苦笑した沙夜さんはもう一つ加えた。
「春になるとこの河川敷に咲く"アザミ"という花があるんだけど、その花の花言葉は"触れないで"って言うの。一見ピンクで華やかな見た目だけど、実は棘があることから来てるみたいね。ちょっとあなたみたいじゃない?」
私が返答に困っていると、沙夜さんが
「ボランティアで初めてあった時はすごく大人っぽくて綺麗な子だわって思ったけど、同時に"近づくなってオーラ"があってすごくとっつきにくい子だなって思ったわ。それでも話してみるとよく笑うとってもいい子ですぐ仲良くなれた。私自身、あまり社交的なタイプではないけど、あなたのことはどうしてか放っておけなかったの。」
沙夜さんに言われるまで全く気にしていなかったが、もしかしたら私はクラスに溶け込めなかったのではなくクラスメートを拒んでいたのかもしれない。どうせ今更馴染めないとどこか諦めていたのかもしれない、と気づいたがもう今更遅いなと酷く後悔した。そこで、沙夜さんは
「あと似てる理由はもう一つ。そんな冷たい花言葉を持つアザミでも私は大好き。」
「えっ、それって…」
私は沙夜さんの言わんとすることが分かってはいたが、直接聞きたかった。
「そう、あなたのことも大好きよ。」
と、沙夜さんは言ったのだ。
あの春の一件以来、母も今まで以上に私にそっけなくなり、クラスでも家でも居場所のなかった私のこれまでの辛さ諸々が全て込み上げてきた。中1にもなって年甲斐もなく声を上げて泣いた。それを沙夜さんは黙って抱きしめてくれた。一頻り泣いた私に沙夜さんは敢えて特に何も言わないでいてくれた。日も沈み、冷えてきたので帰路に着くことにした。

帰宅後、私は沙夜さんの言っていた"アザミ"という花がわからなかったので検索をかけた。
沙夜さんの言っていた通り、綺麗なピンクのー
「いっっっっ!」
当然、例の頭痛に襲われたのだ。川沿いを歩いた訳でもなく、今は春ではなく秋だ。何故だ?何が原因なんだ?やがて目眩も併発してしゃがみ込んだ私は、頭の内側から鈍器で何度も殴られているような痛みに耐えると同時にこの症状が発生した要因についても考えた。あの時との共通点はなんだ?痛みに耐えながらだからまともな思考ではなかったのかもしれない。しかし、これ以外に思いつかない。あの時にも今回にも共通していること。そう、どちらも視界に"アザミ"が入っている。沙夜さんが大好きだと言った"アザミ"。沙夜さんが私と重ねた"アザミ"。それがどうして…


ここまで読んでいただきありがとうございます。もうすぐ新生活が始まる、ということで何か「春」に関連して小説が書けないかなと思ったことがきっかけで書き始めてみました。
予定では今回と同じくらいの分量の記事をあと2回作って完成となっていますが、実際どのくらいの量になるかは未定です。それでも多くの皆さんに読んでいただけたら幸いです。
それでは続きにご期待ください。それでは。

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