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家族の死と再生の物語


【母との事】

小さな頃、
三人兄弟の弟達にしかも一番下の弟は障害があり母は弟につきっきりだったから

いつもお姉ちゃんは我慢!が口癖の母

おとなしくいつも我慢して
いい子ぶってはいたのだけれども。

その反動で思春期の反抗期は酷くて
母との対立、ぶつかり合い
我慢が限界点を超えとっくみ合いの喧嘩した事もありました。

社会人になって独立してからは
ほとんど実家にも帰らず
目まぐるしい日々の中で
親とも疎遠になっていった。

子供を妊娠してから
また時々実家に帰るようになり

母は初産が死産だったそうで
その心配は一切口には出さずとも
私の出産には真っ先に
駆けつけて来てくれた。
産後は母が一週間泊まり込みで
お世話してくれて本当に助かった

これ読んでみて。と渡されたのは
一番下の弟の育児日記。
3歳になっても、歩けず話せず
予感はあったものの、
医療機関に、息子さんは重度の知的障害児だと言われた日の事が描かれていた。

母は
知能が成長しない事
凄くショックだったみたい。

でも父は
別にいいじゃないか
この子にどんな障害があっても
他の兄弟と何も変わらないよ
これまでと変わらず愛情もって育てていこう

と言っていたそう
(父は本当に優しい人だった)

そんな父がある日肺炎で入院
後に肺癌余命半年宣告。

私はそれを受け入れられず
絶対に大丈夫!私が治す!
くらいの勢いで 
あらゆる代替療法を調べまくり
玄米菜食を勧めたり、
私自身は枇杷の葉温灸の手技を
体得して民間療法であれやこれやして
父の身体に触れる機会が増え、
癌をきっかけにそれまで疎遠だった父と深くつながった。

父と過ごせる時間は会社の休みの土日だけ
毎週末には電車で3歳の息子を連れて
2時間近くかけて実家に通っていた。 
平日はガッツリ会社員で
アパレルのデザイナーをしていた頃の事。

当時は仕事も手に付かず
父の事で頭がいっぱいだった

私と父が親密な時間を過ごす中で
今思うと母は疎外感を感じていたのかも。

私が実家にあった化学調味料を全て捨てて
入れ替えたりしていた時
悲しそうな顔をしていたもの。

そんな中
母の様子がどんどんおかしくなり
ある日、
天ぷらの作り方がわからないと
え?なんで?簡単でしょ?
そしたら母は何もわからないって
泣きじゃくり
どんどんおかしな言動が続き
気がついたら廃人みたいな
鬱状態になっていった。

父は私に言っていた。
あれは(母)は逃げたんや
もう俺はあいつに何も期待はしない。

父は母に見放されたと感じたのかな。 
一番支えが必要な時に、
母はここにいない人になっていたから。

私もなんで今父に寄り添ってあげれないの?って心の奥で母を責める気持ちがあった
残念さと怒りが胸の奥でチクチクしていた

あの時期
本当に辛くてたまらなかった
父は末期癌、母は重度の鬱病
私は両親を共に失いかけていて
どうしたら良いかわからなくて
出口も解決策もなく途方に暮れて
悩み苦しみ悶えていた時期。

でもある日、

こんなにも苦しい事はいつまでも続かない。

という想いが湧いてきて
まるで一筋の蜘蛛の糸みたいに
一筋の光が降りて来た。

だって何十年か後にはどうあれ父も母も、
この私だってみんな死ぬんだよね?!
この苦しみには終わりがあるんだよね?

って、おもうと
なんだかパァッて霧が晴れて
ああなーんだ、
じゃあ、『今できる事』しよう
って魂が元の氣に戻ってきて

今したい事は 

父との時間を
できるだけ一緒に過ごしたい。と

会社の方にも話を聞いて頂き
勤務形態をフレキシブルにしてもらい。

旦那さんに相談したら、
家族みんなで私の実家に引っ越して一緒に住もう。と言ってくれた。
気軽にそう言ってくれた事が心を軽くしてくれた。
そういう選択もありなんやーって気持ちの中で可能性が広がった
本当にありがたかったなぁ。

みんながいいよ。がんばれるよ。
って応援してくれた。

そんな中で母がある日
私に電話してきて
『もう大丈夫やと思う』

え?何が?
『やる事を10個書いて、壁に貼ったんよ』

1.朝起きる
2.散歩に行く
3.ご飯を作る
4.お風呂に入る
5.買い物に行く
6.掃除する
7.洗い物する
8.洗濯する
9.布団をひく
10.夜寝る

『多分できそうな気がする
今までごめんね。
お父さんと一緒に過ごす時間
私も頑張れるからだいじょうぶ!』

普段当たり前にしていた全てが
何もできなくなった母が、
自分で大きなカレンダーの裏紙に
太マジックで書いたんだー!と

もう電話口で泣けて泣けて。

人が変わるとき
正気に戻る瞬間を見せてもらった。
内側からどんどん命の花が開いてゆく感じ、
絶望のどん底から這い上がり
命が再生してゆく様は
本当に美しい。

以前の鬱状態の廃人だった母から
メキメキと回復して、人になった
ちゃんとご飯も作れるようになり
父を最後までちゃんと看取った母。
復活劇は本当に凄かった。



そして迎えた最後の父との食事のシーンは
生涯忘れないギフト。

もう何も食べれなくなっていて
声も出ない父が
筆談で、『ビールと寿司』って
震える字で書いてくれて。
嬉しくて嬉しくて。
泣きながら駅前にお寿司買いに走った。
きっともうこれが最後だって知っていて
みんなで一緒に食事した。
その場面は光に満ち溢れて、
幸せで喜びに満ちて愛おしくてたまらなくて
思い出すと今も泣けるくらいに。

あれ?あれ?
あんなにも一番恐れ、忌み嫌い
どんな事してでも遠ざけたくて
受け入れ難かった父との別離のシーンが、
こんなにも平安で幸せに満たされ
愛そのものだったのなら。。。。

私は一体何を恐れていたんだろう。。。  

"恐れ"というものが
完全に消えた瞬間でもありました。


一番恐れていた場面が
一番幸せなシーンに反転していたから


その後父は静かに息を引き取り
平安に満ち美しいお顔になっていく姿を
みんなで見守りながら

【死は恐れるものでもなく
愛を生きるためのもの】


父は死をもって大切な事教えてくれたし
母もまた人の持つ本当の強さを見せてくれた。

それが私達家族の死と再生の物語(^^)


そうそう。
長くなりついでに
(ここまでお付き合いいただいた皆様ありがとう)

母が元気になったきっかけとなる出来事が
あったのだけれど。。。

私は父の癌を治すことに必死で
今思えば母のケアは全く出来ていなかった。

そんな中お正月に東京から帰省した弟が
この惨状にショックを受けて、帰ってから
父に、とメールを私に送って来たのだけど

私はその内容を父にはとても見せれないなぁって感じるくらいにきつい内容だった
でも母に必要な言葉だなとは感じて
プリントアウトして母に見せた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

お父さんへ

僕はお正月に帰省した時 
この状態を見て、
あまりの事にショックを受けています

今の母は魂を無くしています。

それは肉体の病よりも深刻な状態です

あなたは無言の剣をいつも母にむけ続けていたのではないですか?

そのせいで彼女の心は死んでしまったのではないですか?

どうか目の前の事から目を逸らすに
みてください。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

とそんなような事が書いてありました。
母に見せると何度も何度も読み返していました。
魂。。。魂。。。と呟きながら。

その後父に見せたら顔を歪めて
メールを印刷した紙を破り捨てました。

その後私は弟に電話して非難しました。

最後のお正月かもしれないんだよ?!
良いお正月だったと喜んでいる父に
なんであんな文章書いてくるの???
信じられない!

涙が溢れ泣きました。。。

でもあれはあの言葉は母の魂に
直接に響いて、響きまくって。
そして『私はもう大丈夫だとおもう』
と、復活したんですから!


息子が自分をちゃんと見てくれたというのはすごい力になったんだなぁって。
今は弟にも尊敬と感謝です


そんなこんなで今は悠々自適な
お一人様生活になってからは
私のお母さんはドブだった川に毎日ぼかしを投げ入れて川を綺麗にして、花植え続けて
花で埋め尽くされた美しい道をつくりました。蛍も来る名所となりました。

近所の方々には
『いつも綺麗な花をありがとう』ってお礼を言われている母が誇らしいです。

花咲かバァバ🌸🌸と私は
いつもからかっています。

母が元気でいてくれる事が何よりありがたいです💓




全てのお母さん。
そしてお父さんにも
兄弟たちにも
ありがとう。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

4/26日金曜日10時から
オンライン共感サークル開催しています。
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#家族の話

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