『クレイ、どうか穏やかに。』ゲンロンSF創作講座第5回課題【実作】
【マンション解体のお知らせ】
ふと目についたその紙は、開け放したベランダから通された風に大人しくなびかされながら、冷蔵庫の扉の上でふるふると控えめに、慎ましく揺れていた。紙の一番上に目立つよう、太字で縁取られた文字を見て思わず「あれ」と声を上げる。するするとその下へ細く連なった、丁寧な挨拶からはじまる概要に目を滑らせていく。あと3ヶ月ばかりで、生まれ育ったこのマンションが解体されてしまう。それに伴って、入居者は退去を余儀なくされるらしい。
驚きはしたけれど、寝耳に水というわけでもない。その紙が手元に届いたときのことははっきりとしないけれど、ともかくそれは冷蔵庫の扉のいちばん目の留まりやすい高さに丁寧に貼り付けてあって、手に取ってようやく、その紙が昨日も一昨日もここにあったような実感が戻ってくる。それはたしかに自分の手によって貼り付けられたものに違いない。細かく裁断された古紙の練り込まれた、褪せた色のやわらかい再生紙だった。
発行の日付は半年も前だったが、いつから紙がここに挟まれていたかは判然としない。けれど、眼鏡を忘れた視界で距離を測るみたいにして、ぼやけかたによってどことなくそこまでの遠さがわかる。感覚的にきっと、それほど長く貼り付けられてはいないはずだ。せいぜい、1ヶ月か、それより少し短いか。
おおかた届けられてから、その存在ごと所在がすっぽ抜けてしまっていたんだろうと想像する。それであわてて、冷蔵庫の最前に貼り付けた。取りこぼしてはいけないものは、ここに貼り付けておくのが習慣だった。ゴミの収集カレンダーや町内会のお知らせ、重要度合いがわからなくて捨てられずにいる契約書類。そんなものが折々に貼り付けられているおかげで、冷蔵庫の表面は重なった紙の束によって乱雑なモザイク模様を描いていた。それを生活の地層、とひそかに名付けて呼んでいる。
再生古紙のプリントは角が力なく折れて、ところどころに皺が寄っている。上部にはぽつぽつとクリップ磁石に何度も挟み直されたためであろう凹みが見えた。たぶん、目にするたびにこうやって眺めたらしいとそれでわかる。指先から伝わって、じわじわと実感が染み出してくる。どうやらほんとうに、ここを出て行かなくてはいけないらしい。
「こまったなぁ」
ため息の染みこんだ紙は、なんだかそれ自身が申し訳なさそうに萎れていて、こちらもすこし忍びなくなる。困っているのはこっちもそうなんですよ。みたいに紙はくたびれている。
ふつふつと湯の膜が繰り返し弾ける音が膨らんで、キッチンの方へ振り返ると火にくべたヤカンが甲高く鳴いて湯が沸騰したことを知らせはじめた。あわてて火を消しに走ると、ひゅうと気の抜けた音を最後にして、底のぐらつきが途端に収まって静まる。
火のそばに置いてあった割れにくい厚手のマグカップと、そこに刺してあったスティックタイプのインスタントカフェオレが目に入る。けれど今日の舌は、キャラメルラテの気分ではないと言っているように聞こえた。もう少し、別の味はなかっただろうかと『飲み物』とラベルの貼られた戸棚を漁ってみる。開いてみて、整理されたラックの中で、いやにキャラメルラテのスティックばかりが残っていることに気付いて納得する。ここは数分前に通った道だ。仕方なく、キャラメルラテの粉に湯を注ぎ入れて溶かす。ティースプーンの描く円弧の流れに沿って、くるくると甘い匂いが湯気とともに立ち昇ってくる。
カップを持って素足のままベランダに立つ。足裏に触れたコンクリートは、10月に入って落ち着きはじめた気温をそのままに貼り付かせていて、ひんやりと適度に冷めていて気持ちがよかった。
この部屋は七階建ての集合住宅の最上階にあって、南東の角に接するため朝の日当たりが心地よく、朝の光を吸った清潔な風が街の上を通り抜けて直に吹き込む。その空気を肺いっぱいに吸うと、冷たさで鼻がつんと痛くなる。
見下ろすというほど高くもなく、見晴らしも良いとは言えない場所だが、街はそれなりに遠く望める。柵にもたれかかって街を見ていた。このマンションと同じような作りの建物が並んでおり、そのひとつが解体されつつあるのが目に入った。丁寧に防音幕を張られているが、地理的な高さがある分、その様子が垣間見える。
砂山を削るみたいに、鉄筋や構造体が剥き出しになった断面を、首を伸ばしたショベルカーが豪快に打ち砕いているのが見える。バラバラと粉塵を上げながらコンクリが砕けて、崩れ落ちていく音の残滓がかすかにここまで届いていた。砕けた残骸をたんまりと積んだ2tトラックが、遠く向こうへ走り去る。
実感は薄いが、たしかに街は形を変えつつあるようだ。半年も経てばあんな風に、この部屋も吹き曝すように壁を削り取られて無くなる。いまここにある部屋は、足場のないただの空の一部になってしまう。それがすこし寂しい。この風景も、肌に触れる風の感触も、いずれ水の流れにさらわれる砂礫のようにするすると、ほどけるようにこのときこの場所から流れ出していく。
「知与ちゃあん」
足下の方で呼ばれる声がして目線を下ろすと、マンションの根元に少年の姿がある。もう気温はとっくに冷えはじめているというのに、半袖と短パンという夏の装いで、そんなことをものともしないで元気にこちらへ手を振っている。こちらがゆっくりと手を振り返すと満足したのか、せっかちにマンションの入り口へ向けて駆け出す大きな左巻きのつむじが見えた。
七階建ての長い長い階段を、息つく間もなくバタバタと駆け上がる音がここまで聞こえてくるような気がして、すぐに玄関の鍵を開けに回る。サムターンをひねるとまさにバタバタと落ち着きのない足裏が廊下を叩く音が響いているのが耳に届いたところだった。駆け寄ってくる小さく忙しない訪問者のために、ゆるく扉を開けて迎えてやる。廊下の奥から駆けてやってくる少年の姿があった。
「和麻……そのかっこ寒いでしょ」
開けていた扉の隙間と、扉を支えていた腕の下を潜り抜けるようにして和麻は部屋に上がってくる。慌ただしく靴を脱ぎ散らかしながら「ぜんぜん!」と和麻は言い、断りもなく居間に入っていく後ろ姿を眺めつつ、玄関に無造作に散らかった靴をそっと直してやる。
居間に戻ると、和麻は「あーあー」と大げさに呆れた声を出しながらティッシュ箱や卓上時計なんかを引っ掴んで部屋の整理をしようとしていた。
「知与ちゃんまたやってる」
しばしばこうやって、物のあるべきところを忘れてしまって部屋を散らかしてしまうことが多い。和麻はいそいそと、それらをあるべき場所に戻していく。決して部屋が汚れているわけではないのだけれど、物の配置を上手く把握しておけないものだから、部屋に置いてある大抵のものには、その裏側に置いておくべき場所を“住所”として書き、買った日や店なんかも必要ならそこに刻んでおくのが決まりなのだった。
「まったくさ、もう。物には住所ってやつがあるんだから」
和麻は咎めるように言うけれど、しかし大人の欠点を見つけたことがどこか嬉しいのか、もしくは彼の備える世話焼きの気質なのか、物言いは明るくてはつらつとしている。
「うーん、ごめんね。またやっちゃってるねぇ」
「またまた〜だよ。気をつけないと」
はい、とお節介を焼く小さな背に目掛けて行儀よく反省の色を見せる。そうすると彼は満悦したみたいで「うむ」と大仰に頷いて見せる。
和麻は近くの小学校に通っている5年生で、この部屋へは陶芸を学びにやって来る。この部屋は長く、住居と陶芸用のアトリエを兼ねていた。3LDKをひとりで住むには持て余すだろうファミリー向けの物件は、父が子供だったときから長く受け継がれているものだった。しかしいまはもう父も母もここにはいない。寝室とリビングを残して、あとの二部屋は陶芸のアトリエとして改装してしまっていた。
和麻がやってくる頻度に決まりはなくて、彼が来たいと思ったときに好きに来てよい、ということになってくる。いわゆる習い事というわけでもないから、特に目指すべき目標もないし、教えられることだってそんなにあるわけではないから、月謝ももらわない。ただ、好きなようにアトリエの土を分け与えて、部屋を出入りする自由を彼には許している。言うなればそれだけで、しかしよく分からない関係だな、とは思っている。そんな風だから、土に触れないままただお喋りをするだけして帰って行くこともあるし、隣でひたすらに土を捏ねるだけの日もあれば、とんと何週間も顔を出さないときだってある。
震災に遭ったのはたしか、彼と同じ歳のときだったと、彼の豪快な左巻きのつむじを見て思い出す。彼のつむじは頭頂を通って髪をかき分けて、曖昧な七三に似た分け目を作っている。ちょうど彼の分け目がある額の左の生え際、そのあたりだ。
大きな揺れのあとに倒壊した家屋の瓦礫が、当時むくむくと膨らみ育ち盛りだっただろう柔らかな少女の頭蓋を貫いて大きな穴と傷を作った。今でこそ髪が生えて目立たなくなっているけれど、かき分けて見ればそこに深い傷跡が残る。
頭に開いた穴は幸いにも、つつがなく塞ぎ終えて事なきを得たというが、事故の拍子に傷ついてしまった脳細胞とともにうっかりと、少女の脳はそれから十全に獲得していくべきだったいくつかの機能をそこで取りこぼしてしまっていた。その災禍に巻き込まれて、父と母は波にさらわれて返ってくることはなかった。どうして深い傷を負った幼い少女だけが生き残ったのか、それを知ることはできない。
それから少女が成人になるのを見届けるまでこの部屋には祖母と二人で住んでいた。二十歳を超えたあと、まるで自分の役目は終わったかのように、祖母は亡くなった。
瓦礫が爪を立てた脳は事故のあと、物事の段取りをつつがなく立てたり、時系列を上手く組み立てたり、それからこれまで身につけてきたことを引っ張り出したり。とかくそういった順序だったことを遂行するのが人並みに難しくなってしまっている、らしい。そのようなあれこれにはどうやら、高次脳機能障害、という名前があると聞いている。
らしい、だとか、聞いている、なんてよそよそしい言い方をするのも、体感としてとうに、それが正しくあった頃の感覚は遠く離れて、肌に残る実感はあまりにも薄いものであるからだ。時間は絶えず浮遊するように漂い、そのゆるやかな波の上にたゆたって生き続けている。喩えて言うならば、ここまでに至る生活とはそんな風なものだった。おそらくこの先も——この内側に収まった脳みそに異変でも起きない限りは——そんな生活は変わりない。
それは心地のよい漂泊であって、不便で寄る辺ない航海とは違っている。いわゆる“つつがない脳みそ”を持った人たちのような、しっかりと地に足を付けて歩くように生きるのは、むしろしんどくて大変だろうとすら思うくらいだ。自分で行く先を決めて進んでいけたり、あるいは戻っていけたりするのは、融通も小回りも利いてさぞ便利だろうということには想像が及ぶ。けれどどうにも、そのような生活には依然として魅力を感じないでいる。時間のうえでぷかぷかと、脚を投げ出して浮かび流されるままに流れていくのは気楽で良い。それが楽観か脳天気かどうかはさておいて、そういった気質のおかげで、こんな浮遊した生活に落ち込んだり、不安を覚えたりすることはなかった。
頭ひとつ分くらい、目線の下にある、ふっくらとしてまん丸な和麻の後頭部が視線が吸い寄せられる。立派な左巻きのつむじかららせん状に広がった、芯のある髪の毛がやさしく包み込んだ頭蓋をそこに思い描く。その奥に埋(うず)まった、傷を知らない艶やかな脳みそを想像する。これからどんどんと知恵を蓄えて、豊かに育っていくだろう利発な頭。鮮明で、順序立った世界をその内側に丁寧に積み上げていくのだろう、勇敢で前途ある彼のその頭脳にはせめて、敬意を払っていたいと思う。したたかに地を往く小さな体だ。
「今日はアトリエで遊んでもいい?」
和麻は思う存分、散らばった部屋の点検をひととおり手がけたあとで、そう尋ねた。そんなこと断る必要もないのに、と思うがそのひとことが彼なりの社会性で、目一杯の誠実さなのだろうと納得して「いいよ」と頷いて返事をする。
アトリエと名付けたその部屋は居間から扉を一枚隔てた先の部屋にあって、年中、水と土と、それらを混ぜた粘土が好きに飛び散るものだから、あるとき思い切って改装を施した。
ふたつ隣り合っていた部屋の壁を抜いてひと続きにしたその部屋は、壁紙とフローリングを取り外して剥き出しになった、まさにコンクリート打ちっぱなしと言うような見た目で、部屋のあちこちに粘土を練るための土練機や、中型の焼成窯、ろくろや粘土桶といった陶芸のための仕事道具が設置されている。
ろくろの傍に置いた作業台には、昨日使い残したままであろう粘土の塊が、透明で薄手なビニールのシートに包まれて保湿されていた。壁際、一面に設置した乾燥棚には昨日までに成形を終えた、焼成を待つだけの器が見える。付記として一番古い日付の付けられた、茶碗として形作ったのだろう広い口を持った薄手の器はしっかりと乾ききっており、今日にでも素焼きを済ませてしまえるだろうと考える。
つくづく、陶芸という営みは特に、この浮ついた脳みその備える気性と、性質に合っていることに気付かされる。陶芸はひとつひとつそれぞれの工程が、翌日までまたいで持ち越すことがない。ひたすらに粘土に触れ、形を成し、あとは日ごとに、過去の自分から無責任に投げられた工程を連ねてだけでよいのだ。幸いにいまだ、土に触れることは新鮮で、黙々とおなじ営みを続けることも苦とは思えない。
作業台に載せられた粘土の塊をピンと張った切り糸で分断すると、綺麗な断面が露わになる。あまった塊は和麻に与えて、彼と肩を並ばせてその土を練る。
陶土は到底目には見えないほどに細かな粒子が、それよりずっと少ないはず水によってつながれて一個の塊を成している。触れるとひたと肌にへばりつくようで、冷やくて、しかし力をこめるとしっかりと存在を主張をするように抵抗する感じがある。曲げた指をさながらヘラのようにして土を引き寄せ、親指の付け根、母指球ですりつぶすみたいにすこし延ばす。それを繰り返していくことで粘土は精錬されて、内側に含まれた微細な空気が抜けていく。怠れば乾燥や焼成の折に、割れを起こすのだ。
土を練る、この時間は不思議と心が落ち着いた。我を忘れて許される。手にふれる土の感触に意識を寄せ集めるだけでよい。粘土が息の出来ないように、練る。内側へ内側へ、固定されることを拒否することのないよう、時間を丁寧に閉じ込めていく。そんなイメージを抱いている。粘土に丹念に練り込まれた真空の中に、この瞬間にある祈りだとか、思考みたいな、そんなものを封じ込めていく。明日には失われてしまうのだろう、心の動きをそこに混ぜ込むのだ。力を込めるごとに、意識と一緒にその冷ややかな塊はゆるやかに、均質になっていく。
陶芸をはじめた理由はなんだったか知れない。きっかけはどうだっていいことで、いまここにこれだけの道具が揃い、土に触れる肌が、この土を練ることに、その運動に疑問を持たないでいることが真実だった。
土に触れながら、死んだあとのことを考えていた。死んだあとの完全な忘却を、この土の練り方を失い、腕の動かし方さえも叶わなくなった先のことを考える。それを恐ろしいことだとは思わない。いま現在というものは絶えず後ろへと流れ落ちていく。いやきっと、隣で懸命に土を練る彼とは時間の捉え方が違うのだろうけれど、少なくともそんな風に思っている。
思うに頭の中は、時間を溜め込んでおく桶のようなものなのだろう。もしくは水に似た時間の流れの中で、わずかな滞留が生まれる窪みのような。そこに淀みが生まれて、わずかな溜め込みができる。けれど少しずつ流れ出していって、流れた分の水を取り込む。
瓦礫が突き刺さって、一度大きな穴の開いてしまった頭蓋は、未だにひび割れたままで水を漏らし続けている。水は通り過ぎていくがその分、清らかな水だけが流れ続ける。きっと栄養には富まなくて、豊かな生命を育むことはないのだろうけれど、しかし細くとも枯れない清流が流れ続けていくならば、それはそれで素敵なことではないかと思うのだ。すべてがあっさりと通り過ぎていくのも悪くない。
12時を知らせる時計のアナウンスが耳に届いて、我に返る。土に触れてから、思いがけず時間が経ちすぎていたことにそこで気が付いた。
置き去りにされた和麻は練ることに飽きて、人の形だろうか、直立する二足歩行のなにかを形作っていた。何かを言い出す前に、和麻は「別にいいんだよ」と言う。その言い草で、きっと普段もここで、こんな風なことに慣れているのだ、とわかってしまう。和麻に染みつかせてしまった気遣いをわずかに心苦しく思いながら、練った粘土にビニールのシートを被せ直す。
「ご飯食べよっか」
と言い出すと、和麻は頷いて、それまで捏ね回していた小さな泥人形を手のひらでぺたんと潰して崩した。
* * *
その日も朝から和麻がやってきていた。生活の周期で言えばその日は、そろそろ食料や雑貨と言った生活用品を買い足さねばいけない時期で、ある瞬間にそのことに気付いた和麻は「知与ちゃん、一緒に外行こうよ」と半ば強引に引っ張り出すようにして町へ連れ立った。
最近は便利になって、大抵のものは足りないと気付いたときにネットを頼れば、翌日には頼んだものが届くようになっている。だから無理に外へ出なくても、生きていく分には困ることはない。けれど和麻はそれを、よく思っていないように見えた。
「それじゃあ駄目だよ」
と和麻は言う。
「知与ちゃんは、ひとりで町を歩けるようにならなきゃ」
そんな風に誰よりも張り切って、和麻は先導するように先を行って歩く。スーパーまでの道程は、さすがに身体に染みついている。それは視覚的にというよりも、そこに至るまでの歩幅や方向を全身が、これは前にもあったことだと言外に知らせてくるのだ。しかし困ったことに、きっとこれまでになかっただろう建物や、あっただろうが消え失せてしまっているものの気配や、ふとした違和感を感じ取ると、途端に不安を覚えてしまうのだ。身体の感覚と、いま感じ取る直感の狭間で、自信を失ってしまう。そうなるともう、元来た道を引き返して、ひとつ小高い場所にあるマンションへ目掛けて、尻尾を巻いて逃げ帰るほかにない。近頃はそんな具合で、手元に残る近所のスーパーのレシートの数は減り、代わりにAmazonの注文履歴の数が積み重なった。
「和麻、そんなに背、伸びたっけ?」
真後ろからだとはっきりと覗ける、彼の自慢のつむじを目の前にそうこぼすと、和麻は振り返って「知与ちゃんが覚えてないだけだよ」となぜか得意げに笑う。これから気付かないうちにぐんぐんとその背は伸びて、いつかこの立派な後頭部を拝めなくなってしまうのだろうかと思う。その頃にはもしかすれば、彼の頭を模様作る渦巻きのことなんて、うっかりと抜け落ちてしまっているのかもしれない。
町の景色は、生まれ育ったという割りにはどうも、はっきりと思い描くことはできない。こんなものもあったなという気もすれば、こんなものあったっけという気にもなる。曖昧な形をしている。
町の原型は、150年も前に作られたという。その頃に生まれた、耐朽性コンクリートという自己修復を繰り返す特殊な建材が積極的に用いられて、当時は“朽ちない街”として大々的に押し出されていたと聞いている。町には同じようなRC造のマンションが建ち並んでいて、実際に1世紀と半分が過ぎたいまも確かに当時のまま形を保っている。少なくとも、自然のままであれば。
「まただ」と、通りがかったマンションを目にして和麻が声を上げる。ぴっちりと灰色の防音幕が貼られていて、足下からでは中の様子を伺うことはできないが、時折コンクリートの盛大に砕ける音と共に、幕の隙間から砂埃が舞うのが見える。
朽ちない街として作られたものが、いまや人の手で崩されて、砂になり、やがて更地になっていく。街自体は、きっと当時のコンセプトの通りに、これから一世紀が経ったあとでも形を保ち続けたはずだ。この街が崩されていくのは、後世の都合で、街そのものに罪はない。
崩されつつあるマンションを通り過ぎた先に、公園がある。立ち並ぶマンションの隙間に、窮屈にこしらえたように敷き詰められた公園に人の気配はなかった。日が傾いてマンションが陰を作り、とっぷりとここだけが夜のように静かだった。
この近場で解体が進んでいるなら同じだけ、退去も進んでいるんだろうと想像する。和麻はその公園を指差して「知与ちゃんと会った公園だよ」と言う。それに、頷いて応える。
そのときのことを覚えているというよりも、重ね重ねこうやって、和麻に聞かされたから思い出せることだ。彼の話した出来事を、語られるエピソードとして想起する。それは和麻が忘れさせまいと、念入りに語った話である。
和麻が一人、この公園の砂場で泥団子を作っているところに、ふと通りがかったのが始まりなのだという。どうやらそこで立派な、つやつやと光り輝く泥団子を作ってみせたのだという。
「和麻も、ここで生まれたんだよね」
そうすると和麻は半身を翻すようにしてこちらを振り向いて、「そう」と短く言った。わずかに見せた彼のその風合いに、湿った翳りが含まれることに気付く。そこに、かつてなぞった類推の感触がある。この連想は前もやったことだ。と直感的にそうわかる。
この辺り一帯の建物は、耐朽コンのおかげで丈夫に出来ていても、建物自体の歴史は古く前時代的で、つまり住むには安価な地域になっている。一度更地にして街を整えて、再開発を行うのもそのためだ。朽ちないものはどんどんと時代に取り残される。そこに新たな付加価値は湧いてくることは難しい。
彼が気まぐれにアトリエを訪れる理由も、これまでに想像した感触があった。彼の居場所は思うに、さほど居心地のよいものではないのだろう。彼の生まれ育ちは、このあたりの住民がそうであるように、さほど恵まれたものではない。
気を取られていると足下に、ゴロゴロとした瓦礫のひとつがあり、つま先がそれを引っ掛けてバランスを崩しかける。そのとき通りがかった瓦礫を積んだトラックが、道路に穴やくぼみでもあったのか、ガタンと音を立てて後輪を跳ね上げさせる。その拍子に、浮いた積み荷の瓦礫が舞い上がるのが。どうやらこんな風に跳ねるおかげで、瓦礫を落としてしまうのだろうと、それで想像がつく。
足下を掬おうとしたその瓦礫はこぶし大ほどの大きさで、掴み上げると砂埃のような細かく砕けた白い粉が指の皺をはっきりと浮かび上がらせるようにまとわりつく。掴み上げたそれをどこかに投げ捨てるのも違うように思えて、羽織った秋物のコートのポケットに放り込む。それを持って帰って、砕いて、粘土に混ぜてみるのはどうかという気になったのだ。家に着く頃までにその思惑がすっぽ抜けてはしないだろうかと思うが、そうなればきっと捨ててしまうだけで結果に変わりはない。
そこでふと、思う。和麻に出会った公園がすぐそこならば、彼の住まっているはずの家はきっとここからそれほど遠くない。ということはつまり、彼の家にももうじき、解体の波がやってくるはずだった。
「和麻はさ、もう次のうちは決まったの」
問いかけたあとで、それをしまったと思う。和麻はわずかに答えを躊躇った。その間は、たぶん一度聞き終えたことを再度聞いたときの雰囲気を感じる。ややあって、「わからない」と和麻は漏らす。
「知与ちゃんはどうなの」
こちらに背を向けて歩きながら、和麻はそう問い返す。
「私は——。うーん、これからかな」
苦し紛れに、そう答えるほかになかった。これからかどうかも、知り得ないし、これまでどうだったのかも、わからないのに。
両手いっぱいの袋を抱えて、息を上げながら階段を登っていく。マンションにはエレベーターがあったのだが、いざ乗ろうとしてみるとバリケードが貼られて、利用が停止されていた。きっと間もなく解体されることもあって、保守や点検の関係で利用が止められたのだろうと想像する。
歩くのは好きだったが、大荷物で7階まで登り切るのは骨が折れた。一段ずつ慎重に、上がっているうちに気が付く。知らぬ間に、人の気配はおどろくほど薄くなっている。遠くから聞こえる声もない。それもそうか、と思い直す。とうに住民たちの引っ越しがはじまっているのだろう。
隣人の顔なんて思い描けるはずもないが——元より付き合いなんてなかったのだが——思い出せないならば、顔を合わせたのは随分前ということだろう。とんと気配は静まりかえって、不気味ささえ漂っている。ゆっくりと建物が、街が死んでいく気配が漂う。
ここを離れることなんて、上手く想像がつかない。袋に詰まった食品を冷蔵庫に詰め込みながら、そう思う。なにせ、ここの外で暮らしたことなんて今までにないのだから。
食卓の上でスリープ状態になっていたパソコンを開けると、ウェブブラウザが賃貸の情報サイトを開いているところだった。前回の自分が調べてからそのままの状態だ。検索履歴を調べると小一時間、この部屋と同じくらいのサイズで、陶芸を続けられそうな場所を探した痕跡がある。その迷走の履歴を眺めて察する。想像はしていた。きっとこの外を出れば当たり前に、いままでのような生活ではいられない。
遡れば、この建物にしてみるとほんのすこしと言えるくらいの前までは、ここにごく普通な、当たり障りのない家庭があったはずの部屋だ。父と母の寝室があり、そのあとは祖母との生活があった部屋。
気付くとひとつひとつが、陶芸に飲み込まれて、面影はどこかに抜け落ちてしまっている。次第に、そこに生活があったころを鮮明に思い出せなくなった。脳の網目をすり抜けて、痕跡はぽろぽろとこぼれ落ちていく。ポケットに手をやると、大きな塊がひとつ手に触った。コンクリートの瓦礫だった。少し前までこの部屋のように、人の生活の一部だっただろう破片だった。
二度目かもわからないその思いつきがこぼれ落ちないうちに、アトリエでその瓦礫を丹念に砕いた。通常はもっと自然にある岩石を砕くはずのスタンパーで、力一杯に叩き、その瓦礫を白く粉っぽい砂礫として解いていく。
はたき土と同じ要領だ、と思う。通常は上手く配合されてきめ細やかな粘土に、こうやって自然のものを手ずから砕いて混ぜることで、出来上がる陶器は荒々しくてより土っぽい風合いを見せる。コンクリを砕いて混ぜるなんて発想をしたことはなかったけど、出来ないことはないだろうと思う。
混ぜ込むのは買い付けた新品の粘土ではなくて、素焼き前にひび割れたり、うっかり落としたりして砕けたものを細かくして、再び水で戻した再利用の粘土にすることに決めた。桶の中で、やや過剰に水っぽい泥のようなそれに、砕いたコンクリートを溶かし込む。ねっとりとした桶に手を差し込んでかき回す、コンクリのざらざらとした質感が次第に、桶の中の泥と混ざり合っていく。
と、そこで玄関の方でインターホンが鳴るのが耳に届いた。和麻の指先が押したものではない、と予感が発する。その音はゆっくりと丁寧な所作で押されたものに聞こえて、何か、宅配を頼んだものがあったのだろうと腰を上げる。
ゆるい粘土をかき混ぜた手で出て行くわけにもいかず、あわてて手を洗いに出ようとしたところで、うっかりと足に引っ掛けて桶を倒してしまう。中身が床へとゆっくりと溢れ出て、緩慢な速度で広がろうとしているのが見えた。
いまこれに手を掛ければ、順序が入れ替わってしまう気がした。コンクリ造りの床では、ゆるいその粘土がこぼれたところで、汚損してしまうものもないと自分を納得させる。来客を後回しにしてしまうより前に、倒れた桶を置いて、玄関の方へ向かった。
* * *
「知与ちゃん……これなに」
その日、朝の早い時間からアトリエにやってきた和麻は、アトリエの床を這い回るように怪しく蠢く泥の塊を見てそう言った。
「うーん……なんなんだろうねえ」
と答えるほかにない。それが何なのかを、むしろ教えてもらいたいくらいだった。
今朝起きてアトリエにいくと、それは既にアトリエの床の隅で縮こまり蠢いていた。まるで生きているみたいだが、触れてみるとやはり、動くはずもないゆるい粘土の塊にしか感じられない。
しかし手を触れると、“それ”は反応を返すように抵抗を示して、生き物に触るように触れると喜ばしいのか、ふるふると身体を震わせて動く。形状は不定形で、水っぽくゆるい粘土そのものに何かの意識が宿っているかのようだった。
“それ”の出所はどうやら、素焼き前の失敗作を再利用するために溜めておいたはずの桶で、それの傍には横倒しで空になったそれが転がっている。時折それは頭を引っ込めるように横倒しになったままの桶へ身体を潜ませる。それは犬小屋に尻を埋めるイヌのような仕草にも思えた。
【渇いて元気がなくなるから水をあげて】と、桶の上の方には見慣れた筆跡のメモが貼り付けてあった。その走り書きを見るに、それは今朝いきなり沸いて出たものではなくて、何日かすでに世話をしているらしいものだというのはわかる。しかしそれはそれとして、どうしてこんなものをおいそれと受け入れられるだろうか、と頭を抱える。この工程はもう、すでに何日か繰り返しているのかと思うと気が滅入る。ともかくは書き置きに従って、たしかにわずかに粘性を失いつつあるそれの肌へ、霧吹きで細かく水を掛けてやる。そうするとそれは頭上から降ってくる霧吹きの水に反応して、首を伸ばすようにぐいっと身体を持ち上げてみせた。
和麻はというと、それの不気味さよりも好奇が勝ったようで、案外すんなりとそれと打ち解け、触れ合って遊んでいた。いまはなんだか、子どもの柔軟さが羨ましいとさえ思う。
和麻が手を近付けると同じようにそれは身体の一部を伸ばして触れようとする。目、らしきものはないのに、人の気配はわかるのか、とぼんやりと考える。和麻はそれと言葉を交わすこともできないのに、きゃっきゃと歓声を上げながら不思議と打ち解け合っているかのように転がり、じゃれあっている。
見ていると、うっかりその粘土の身体に、がばっと、その小さな身体ごと飲み込まれてしまわないか不安になる。ある日それの中から、得体の知れない酸性の液かなにかで溶かされてしまったような、子どもの人骨が吐き出されるまでを想像して、頭を振る。
「知与ちゃんこれ名前なに?」
名前、と言われて困る。ごくごく当たり前のように和麻は言うが、果たしてこれは名前を付けるべき存在なのだろうかと悩むのだ。ともかくそれやこれでは呼ぶにも困るので、顎に手を当てて、ぽつりと「クレイかな」と粘土になぞらえてそう提案してみる。
「クレイ!」
それは単なる復唱だったのかも知れないけれど、ともかく彼の上げたその歓声のような一声でなんとなく、それはクレイに決まったようだった。
緑色の養生テープを適度に破って桶に貼り付け、その上にマジックで【命名:クレイ】と未来の自分へ向けたメッセージを貼り付ける。これならきっと、次目にしたときにもそれが名前だということがわかるだろう。
じゃれ合って遊ぶ和麻とクレイを余所目にしながら、滴った釉薬や粘土の粉の落ちた焼成窯の手入れをしていると、その終わり際になって和麻が急に「知与ちゃん知与ちゃん!」と呼びかけてきた。
「みてみて! クレイからなんか出てる!」
振り向くと確かに、これまで均質な泥のようだったクレイの表面にひとつ、地面からビルが沸き立つかのように、手のひら大の立方体のようなものが生えかかっていた。クレイの体から捻り出されるみたいにそれは音も無く湧き出て伸びてゆき、生え出た部分は陶器にするのにちょうどいいくらいの乾き方をしているように見えた。
飛び出して伸びやがて直方体と呼べるくらいになったその部分から、クレイの本体、とでも言うべき泥状の本体の方が、どういう原理か水を吸い取っているのだろうかと想像する。
やがて、ぺ、と吐き出すように立方体は切り離されて、クレイの体の外に転がる。しっとりとした、粘土の塊だった。人の手では再現の出来ない、塊から切り糸でスパッと切り出したような、適度に角の立った直方体で、しかしそれも鋭利という程でもなく、ところどころに凹みがある。
クレイの体からこぼれ落ちたそのブロックを和麻は手に取って、しげしげと眺めたあとで「知与ちゃんこれ焼こうよ」とこちらへ向けて差し出してくる。
「さすがに無理かなぁ」
と首を振る。陶芸では、大きな塊は焼けない。焼成するにはそれはあまりに厚すぎるように見える。手に触れて持つと、それはやはりずっしりと思う。しかしどういうわけか、なにか、その感触に懐かしさがある。
捻り出したブロックの分、ほんのわずかに嵩の減ったクレイの体にまたひとつ、角のようなものが浮き立つ。モリモリと練り上がるその様を、じっと観察してしまう。
それはクレイの体からどんどんと盛り上がってきて、本体から離れれば離れるほどじわじわと渇いていく。待っていると、形が見えてくる。今度は厚みのある二等辺三角形の立体だった。手に持ってみて、先ほどと同じようにやはり、なにかその感触に違和感がある。
すこし小さい、と思った。こんな粘土に触れたことはないはずなのに、肌はこれを覚えている。だがなにか、違うような気がしている。これはもっと、この手のひらよりも大きかったはずだと思う。そこまで思い当たって、はっとする。そうだ。大きくなったのは、この手の方だ。
「これって——」
クレイはまた、蠢く表面がなめらかなカーブを描いて浮き上がり、たったそれだけで「次は球だ」とわかる。
辛抱強く待っていると、切り離された粘土質の球がころんと転がる。まるでそこから捻り出されたのが嘘のように表面はつるりとしていて、切り離された痕なんてどこにも見当たらない。人の手でひねるだけでは到底、こんなものは作れない。
「泥団子?」と和麻は言う。首を振って「ううん、違う」と断言する。
「積み木みたい」
頭よりもずっと、手の方が理解している。小さな頃、これを握って遊んでいた。手触りも、触るとわかる小さな凹みも確かに覚えがある。肌を伝って、感覚は喚起される。
どうしてクレイが、これを知っているのだろう、と思う。その玩具はもうこの家にはない。だけど確かにいつの日か、両親が一人娘のために買い与え、どれほどの時間かこの家の中にあったものだ。触れるまで思い出すことなんてあるはずのなかったその輪郭を肌に感じる。
手を伸ばしてもう一度、クレイの肌に触れてみる。冷たくて、とても生き物らしくはない感触。クレイは意図のよくわからない体の震わせ方で、手のひらに触れ、そのままするすると、桶の中へ戻っていった。
クレイの世話は定期的に水をやるほかに、なにか物をひねり出して体のかさが減るたびに、縮んだなと思えば新しい粘土を与えてやるくらいだった。クレイの体に粘土の塊をひとつ置いてやると、いそいそとそれを呑み込むようにして取り込んで、体の一部に変える。
そういったクレイの行動の端々がどこか、可愛らしく見えてくる。クレイは日が当たって乾きやすい日中は日向を避けて暮らし、知らないうちに乾きが進んでいれば体を丸めて桶の中で休んでいることもある。
クレイを見つめながら床にあぐらをかいて、じっとその様子を観察していた。床には直にノートを置いて、そこにペンを走らせていく。傍から見ればまるで、スケッチでもしているように見えるだろう。そうやって瞬く間に流れていきそうになる考えは、文字に残して置かなければたちまちにさらわれていく。
自然の岩石や砂礫を砕いて素材にするためのバンパーには、普段陶芸に扱われるものではない、コンクリートに似た欠片が残っていた。よく観察してみれば、おなじような粒子がクレイの体にも混ぜ込まれているのがわかる。その意味を後からなぞるように、追いかける。ここに街があったと言うことを、ひとつの陶器として残すためにコンクリを混ぜようという考えがあったのではないかと、仮説を立てていた。実際にそうだと思い浮かべると、それ以外には考えられないような気がしてくる。そのやりかたは自分らしく、しっくりくる。
ただの、当然意志を持つように動きはしないいわゆる粘土と、こうやって自在に這い回るクレイとの違いを考えると、原因はそこにしかない。もしかすると混ぜ込んだコンクリートによって、クレイの体はこのように動き出しているのではないかと考えていた。
傍らに、いつもの住所から持ち出してきたノートパソコンを置いて——翌日にでも、和麻に怒られてしまうのが目に見える——、この街の大部分を構成している素材である耐朽性コンクリートについて調べていた。
耐朽性コンクリートは、通常のそれとは違って特殊なバクテリアが混ぜ込まれている。コンクリートに混ぜ込まれたバクテリアは通常、休眠状態にあるのだという。建材の劣化によって起こる微細なひび割れによって空気に触れると、コンクリートの奥で活動を止めていたバクテリアは休眠から目を覚ます。空気を媒介に代謝を繰り返し、排出物となる炭酸カルシウムがコンクリートのひび割れを補修するための“つなぎ”となるというのだ。そうやって耐朽コンは自己修復を繰り返し、数世紀にわたる風化から耐える性質を保ち続ける。
そういった記述にひととおり目を通したあとで、だとすれば、その耐久性コンクリートに混ぜ込まれたバクテリアによって、クレイが形作られているのではないかと考えを巡らせる。たとえばバクテリア同士がやわらかな粘土の中で活発に動くことで、それぞれが相互に、まるで脳神経のように結びつく。そのような想像だ。そうして出来上がったのかもしれない、未熟な脳みそにも喩えられそうなクレイのゆるやかな体を見る。それが皺のない、つやつやで流動性のある脳みそにも見えてくる。
和麻はクレイのことを心底気に入ってしまったようで、それから毎日のようにクレイへ会いにやってくるようになった。和麻と触れ合っていることがなにかの刺激になるのか、クレイは二人の前でたびたび、自分の体をひねり出して作った立体物を作り出した。はじめのそれは積み木だったと和麻は言う。その次は、ひらがなで苗字の刻まれたソプラノリコーダー。
クレイの捻り出して作ったそれらはどうしてか、薄れてしまって引っ張り上げようのない思い出を喚起させる。その経過は和麻が丁寧に“観察日記”を付けて、日付と共に記録されている。
「知与ちゃんおれね、たぶん、来月にはいなくなっちゃうみたいなんだ」
クレイに目線を合わせるように寝っ転がりながら、開けたままのクレイの観察日記を枕にして唐突に、和麻はそんなことを切り出した。
街が着実に、解体されはじめているのは実感としてわかりつつある。この部屋を出て行かなければならない期日も、新しい朝を迎えるたびに迫っていることに気付かされ、もう時間は残されてないのだと、毎朝困り果てている。
彼もおなじように、この街を出て行かなければならないことは理屈としてわかっていた。だからひとまず「そっかあ」と返事をする。
「大丈夫だよ。これは今日、はじめて言ったことだから。また言うから、忘れちゃってもいいんだけどね、もう、引っ越すとこも決まっちゃって、ここからちょっと遠いところになる。だからいまみたいに知与ちゃんのとこに来るのも、難しくなりそうなんだ」
和麻はなにか言いづらそうにもごもごと言葉に迷ったあと、クレイがそうやって捻り出してみせるみたいにおずおずと「知与ちゃんは、おれがいなくても平気?」と訊く。
「平気って、また。そんな大げさな」
まるで子どもじゃないんだから、と思う。心配するなら、こちらの方であるべきなのだ。
「そういう和麻こそ、平気? 私がいなくて、大丈夫」
和麻ならきっと、強がって『平気だけど』みたいに言うのだろうと思っていたけれど、思いがけず和麻はしゅんと萎むような表情を見せてぽつりと「平気じゃないかも」と漏らす。
それは思いがけなかった返答で、反応に窮してしまう。
「知与ちゃんは、どうするの。ここ無くなったら、どこ行くの」
「——私も、わかんないや。困っちゃうよね、ほんとうに、どうしようね」
「だって知与ちゃん、おれがいま話してることだって、忘れちゃうじゃん? 知与ちゃんはおれがこなくなったら、おれのことも忘れちゃう?」
そんなことない、と言うべきだったのはわかる。いま不安に押しつぶされそうになる彼に出来ることは、その小さな頭を撫でて首を振ってやることだった。だけどそれを言うと嘘になってしまって、利発な彼はその嘘に気付いてしまうとわかってしまった。保証が出来ないことは、自分がなによりも知っている。守られることを誓うことのできない約束を交わすことは、約束をしないことよりもずっと残酷だ。
「おれ、知与ちゃんに会えなくなるのイヤだよ」
と和麻はぐずるように言う。それから和麻は逃げ帰るように荷物を抱えて出て行って、アトリエには床を静かに這い回るクレイと、子どもにすっかりと失望されてしまったらしい不甲斐ない大人だけが残された。
「私たち、どこにも行けないね」
足下までやってきたクレイを撫でて、そう漏らす。クレイはなにも言わないで、手のひらにそっと吸い付く。
* * *
インターホンが鳴らされたのは昼下がりで、その慎ましやかなベルの押し方はきっと和麻のものではないだろうという予感があった。鳴らし方に、どことなく余所余所しさがある。その行儀のよい所作は、彼のイメージには合わない。
ドアを開けるとそこに、スーツを着込んだ女性の姿があった。
「石田さん、こんにちは」
女性はにこやかな笑顔をひっさげて、挨拶をする。首に下げていた身分証らしいカードをわかりやすく、こちらに見えるように差し出して女性は「いつもお世話になっております」と頭を下げる。お世話になっていてもなっていなくても、やはり女性の姿にはぴんと来ることはない。
「先日も訪問させていただいた、支援センターの高橋と申します」
彼女は名前の一文字一文字を一音ずつ区切って、聞き間違いのないよう念を押すように発音して見せた。
「今日もまた、住居のことでお約束させていただいておりまして」
今朝、冷蔵庫で目にした紙を見たから、思い出せている。じりじりと往生しているうちに立ち退きの日が迫っているらしいことはわかっていた。そのことに日々気付いてこそいるがどうにも、それを具体的な実行に移した気配は見られない。
ひとまず高橋と名乗る女性には部屋に上がってもらって、コーヒーでも出そうと戸棚を開いた。『飲み物』とラベルの貼られたラックには、キャラメルラテのスティックばかりが残っている。客に出すものではないなと思い直して、残り少ないカフェオレを取り出して作る。
「できることなら、ここは離れたくないんですけど」
湯気の立つマグカップを差し出してそう言うと高橋は、笑顔を崩さないまま器用に眉だけをハの字に曲げて、いかにも「それは難しいですね」と言いたげな表情を作った。
「先日もご案内させていただいた通り、やはり、立ち退きは決まってしまってまして」
高橋は鞄から取り出した封筒の中からいくつか紙をまとめて取りだして、テーブルの上に丁寧にそれを並べる。この近辺で移り住める物件の資料だった。それらを手に取って、めくっていく。
「先日訪問させていただいた際にお伺いした希望で、いくつかピックアップはさせていただいたのですが、やはり難しく。このあたりが、相場にはなってしまうかと」
どれも、一人で住むには十分な物件だろうとは思う。けれど、それ以上の余白はないことはわかる。窯を置くことも、作業台を置く余裕も、小さな友人を好きなときに招き入れることも難しそうな、ただ住むばかりのワンルーム。
高橋は、相手を不安にさせまいという意図の見えた柔和な笑顔のままで「ご安心なさってください」と告げる。
「私どもも、精いっぱい、一生懸命サポートさせていただきますので。困ったことがあったら、いつでも頼ってくださって大丈夫ですよ」
やさしい物言いに、強く首を振ってしまいたくなる。そうではない。そうではないのだ。叶うことなら、ひとりで生きていたいのだ。誰かに頼ることなんてしないで、土に触れて、通り過ぎる時間の流れにたゆたっているだけでいい。ほんとうに、それでいいのだ。
「やっぱり、どうすることもできませんか」
振り絞るようにそう言うと、高橋は、決して彼女が悪いというわけでもないのに、申し訳なさげに頭を下げる。
「わかりました」
と、本当の本当はわかってもいないのに、そう口にする。思い出したのは、和麻のことだ。
和麻の家も、おなじように再開発の範疇に含まれているはずで、まだ彼の行く末は知らないでいた。もしかしたらもう聞いているのかもしれないけど、聞いていたって仕方がないことだ。とかくもうこのアトリエで過ごす営みに戻ることはできなくて、間もなくここは更地に変わるのだ。なにもかもが変わっていく、なにもかもが砂になる。この瞬間の葛藤すらも時間の流れにさらわれてしまう。それらをこの手で捏ねて、ひとつの塊のようにできたらいいのにと思う。あるいは粘土のように、触れられる形になって、それが崩れることのないように火に焼べて。
その日は、荷物の整理と運搬の段取りを決めて、高橋は引き取っていった。夜になってもまだ、この家のばかりを考え続けていた。手には紙を握りしめていた。マンションの解体を知らせた紙だ。
アトリエの冷えた床に座っていると、桶の中からクレイが這い出てくる。月の光がやけに明るく、日光とは違ってそれが心地良いのか、クレイは夜の間は好んで窓から差し込む光に当たろうとしているように見えた。
擦り寄ってきたクレイの体の表面に右手を触れさせて、それを握り込むように、押し込める。クレイには、どれだけの感覚はあるのだろうか。でもどことなく、触れていることは伝わっているような気がする。伝わるだろう、という願望もあった。
指の隙間から、指をかき分けるように粘土が生えてくる。それは指と同じ太さくらいの棒きれに見えて、やがて指に絡ませるように、やわらかい力が込められる。それは父の手だった。長く触れることをしなかった、骨張った手には、皺のひとつひとつまで父のものであると、触れてわかる。
その隣から母の手が、父の手に重なるように湧き上がってくる。その傍には祖母の手が。そして、もうひとつ小さな手が浮かび上がる。見覚えのない赤子くらいの小さな手。和麻のものではない。
触れてみてわかった。それは私の手だ。小さな頃の、懸命に積み木を握っていたころの小さな手。
「そう。——きみは、私の代わりに覚えててくれるんだね」
ぐるりと部屋を見回してみる。アトリエに改装するときに剥き出しになったコンクリは、クレイに混ぜ込んだ耐朽コンクリートと同じ素材でできている。きっとクレイは、この建物そのものと繋がっている。この建物に刻まれた記憶を、吸い上げているのだ。この部屋が触れてきた物を知っている。この部屋に流れていた時間を、クレイは知っている。
私はずっと、ここに居たのだ。たしかにこの場所に居た。
するとクレイがひとつの塊に戻り、ぎゅうと一点に体を寄せるように集まりはじめる。クレイはまるで背を伸ばすように、体のすべてを使って、体を高く押し上げようとうねりはじめる。
クレイがぐんぐんと背を伸ばすうちに立ち上がり、やがてクレイの体は成長を止める。それは和麻よりはすこし小さいくらいの、ひとつの細長い塊になる。無機質には思えない。そこにはクレイの意識がたしかに宿る。
そうして背伸びしたクレイの体を、深く抱きしめる。体はひんやりとしていて、やわらかな反発がある。その奥でどくどくど脈打つような震えがある。それは長かったり、短かったりする。連続した振動のつらなりがあるように思えた。どうしてか、これを知っていると思った。
クレイの内側から湧き上がってくるその震えに耳を澄ませていた。やがて、その意味が思い出せる。父とこうやって遊んだ記憶。モールス信号だった。かつてふたつの部屋だったこのアトリエは、片方が父と母のための寝室で、もう片方——いまクレイの立つこの場所が子供部屋だったのだ。拳で器用にトンとツーを表して、くすくすと笑いながら壁越しに細かな言葉を交わしていた。
『ちよ』、『ちよ』
振動の奥で、かつて父がなぞった音が聞こえる。
『ぱぱ』と、つたないリズムで刻む音。
『ここにいるよ』
クレイの体は、このマンションに根付いた記憶に繋がっている。その粘土とすこしのコンクリートでできた体を通じて、肉体はその記憶の手触りに触れている。
目尻から伝って落ちた涙がクレイの頭に落ちて、それがじんわりと染みこんでいく。
クレイは静かに身じろぎをするように震える。その体がまたすこし、背伸びをするように持ち上がったかと思うと、不意にその体が統制を失ってくずおれようとする。足下を見て気付いた。クレイは本体を残さないで、体のすべてを捻り出そうとしていた。それはつまり、このマンションから自らを完全に切り離して、全てを手放そうとしているのだとわかる。
『おやすみ』
と、腕の中で途切れ途切れの音が聞こえる。
「うん、おやすみなさい」
と、私は答える。
そうしてクレイはひとつの大きな、意志を持たない粘土の塊へと戻ってゆく。
* * *
生まれ育った街を離れて移り住んだのは、遠い山あいにある田舎町の外れだった。新しい家ではいまだに、目を覚ますたびに不安が襲う。見慣れない天井が自分の住まいだと理解するたびに、30年積み重ねた生活の重みを痛感する。
移り住んだあとも、幸いに陶芸は続けられている。タダ同然の値段で売りに出されていた古民家を思い切って買い取り、多少の手間を掛けて住めるようにした。
クレイだった粘土はやはり以前のように動き出すことはなく、それでも時折、それを捏ねて陶器を作ることがある。
引っ越しのついでに頼み込んで、崩されたマンションの瓦礫をこの田舎まで運び込んできていた。それは日差しの直接当たらない場所にうずたかく積まれて、思い出したときにそれを砕いて粘土に混ぜることをした。
不思議とその土に触れている間は、忘却が遠ざかるような気がした。市販のすぐれた粘土に比べて、ざらついて不均一な手触りに触れていると、手のひらからあのマンションの生活の手触りが思い出されるのだ。
ある朝、玄関のベルを鳴らす音がする。予感があった。玄関の磨りガラスの貼られた引き戸に、人影がある。開けるとそこに、見知らぬ青年の姿がある。
すこしばつの悪そうな、不安げな面持ちをぶら下げて彼は消え入りそうな声で「どうも」と言う。
随分と背が伸びた。もうここからでは見えない豪快な左巻きのつむじをその頭の向こう側に思い描いて、私は言う。
「大丈夫、ちゃんとわかるよ」