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「できる私」と「できない私」が織りなす世界

「何か一つのものさしで測ることは、よくないこと」というのは、よく耳にするフレーズだ。典型的なのは、教育に関する文脈で「テストの点数だけで、子供を測るのは良くない」というもの。

なぜ良くないかといえば、その子供は実は「絵が上手い」かもしれないし、「周りの友達をよく笑わせている」かもしれないし、「先生の言うことをよく聞いている」かもしれないからだ。

点数で測ることは難しくても、その子にはできることがある。言語化することは難しくても、その子にはその子なりの価値がある。

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2020年から21年にかけて、「私にとっての現実とは何か?」という問いについて考えていた。(当時は”問い”として言語化できていたわけではなかったけれど…)

そのなかで、得た気づきの一つがこれだ。

”私はこれまで、「スコアで測ること」と、それに対する「批判(=スコアで測れない価値がある)」の間で、バランスを取って生きているということ。そして、そのバランスの取り方や考え方が、脳や意識に深いレベルでしみ込んでいること”

たとえば、自分にとって都合の悪いことがあったとしよう。例えば、作ったプレゼン資料が評価されない、人間関係がうまく気づけない、異性に振られる…etc

そうすると、自然に浮かんでくるのが「それには、別の見方があるのではないか?」という意識だ。たしかにうまくいかなかった。それは仕方がない。でも、別の誰かが見たら評価してくれるかもしれない。もしかしたら、数年後振り返ったら、良い経験になっているかもしれない。etc

「ひとつの物差し」を批判することによって、多かれ少なかれ、自分を少し肯定することができる。ちょっとだけ救われる感覚。

人は、そうやって折り合いをつけていく生き物なのかもしれない。

[END]

でも、それって「できるか/できないか」のものさしで見ていることに変わりはない。「テストの成績で測ったときに、私は価値があるか」「2年後の自分の能力で測ったときに、私は価値があるか」…小さな誤差はあるものの、結局は「私には価値があるか」という大きなものさしで見ているに過ぎない。

ただ、注意が必要なのは、自己啓発的な「他人からの承認を求めず」「自分の楽しいことをする」という話とは、切り離す必要があることだ。

なぜなら、そういう考え方をしていると、「ではどうするか?」ということを現実的に考えたときに、ある特定の行動に執着したり(例:音楽が好きなので、それ以外はやりたくない)、前に進めなくなってしまう(例:好きなことが見つからない)からだ。

「できる私」と「できない私」、この世界を超えていくためには、やはり「私」みたいなものから離れる必要があって、それが今流行りの近代に生み出された「個人」の概念批判につながっていくわけだが…

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最近、面白いなと思った言葉で、「ナラティブセルフ」「ミニマルセルフ」というものがある。「物語的自己」と「最小限の自己」である。

”人は生きている中で、何かしらの文脈や物語を宿して生きている。それは無意識のうちに、自分にしみついてしまっているので、生きる糧になっている反面、時にはそれらを削ぎ落して、ミニマルな自分になることが必要である。特に現代は、情報過多の社会で、そのニーズは高まっていると言える。ヨガやサウナが流行っているのもそれが理由である。”

このようなニュアンスで用いられている概念らしい。(正確には調べていないので、あしからず)

とても面白いなと思いつつ、個人的に興味があるのは、ミニマルになった後に「どの物語と接続するか」である。「○○をできる私がいて…」みたいな書き出しで始まる物語だけでは、ちょっと虚しい。

新しい「物語的自己」を見つける旅をしたいな、というのが27歳の抱負である。(先日誕生日を迎えたので)

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♪「Wasted On you」 Morgan Wallen

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