考える人

リモートワークが主体となって、およそ半年。予定調和の会話が増えたように感じるのは気のせいだろうか。

オンラインツールによって、コミュニケーションが規定されている。
また在宅によって、移動がなくなり、思考モードは固定化されてしまう。

日々のインプット情報やアウトプット情報も、かなり減った気がする。さらに言うと、テキスト情報ばかりに偏っているように感じる。例えば、以前であれば、たとえ短い時間の通勤であっても、周囲の音や景色から、あらゆる種類の情報を無意識にインプットしていたはずである。またそれに対して反射的に何か反応をしていた(アウトプット)はずである。

そういったことによって考えることが、以前よりも下手になったのではなかろうか。いや、そもそも考えるとは何か?

山田ズーニーさんの「理解と言う名の愛がほしい」を読んでいて、めちゃくちゃヒントになるなと感じたので、引用したい。

予定調和な感じがする人は、胸の上のあたりに「返答用のファイルボックス」がある感じだ。日頃から、ネタや情報、処世術など、勉強して、集めて、ストックしている。どうもその胸の上あたりのファイルボックスから、ネタを出し入れながら、喋っている感じがする。「Aについて、どう思いますか?」と問うと、「一般的に、このような場では、どのような返答を返すことがいいのだろうか?」という検索軸が立つ。
一方、話しておもしろいと感じる人たちは、言葉を発するまでに、しばし黙る。この沈黙の間、彼らはダイビングしているように思う。彼らには、今まで生きてきた深い深い「経験の湖」がある。「Aについて、どう思いますか?」と問うと、彼らは沈黙の間に、迷いなく、まっすぐ「経験の湖」に降りていく。まだ言葉を与えられていないものを汲み上げて、最終的に言葉にしていく。

これを読みながら、思い出した言葉が「一回性」と「再現性」という言葉だ。考えている人というのは、相手や状況を観察しながら、その場限りの問を立て、その場限りの答えを絞り出そうとする。一方で、考えていないように見える人と言うのは、問いも答えも再現可能なものとなる。

小学生の頃、テスト用紙には「よく考えて答えなさい」という言葉が書かれていたことを思い出す。自然と「正しい答えを導き出すことができる=よく考えることができる」のような、定式が成り立っていた。

「考えるとはどういうことか」考えて実践してきた人とそうでない人の違いが、リモートワークになって、より鮮明に表れているように感じる。

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♪ 神様、僕は気づいてしまった「大人になってゆくんだね」


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