2018/5/22 演劇ユニットそめごころ『スクリーン』

福岡に、演劇ユニットそめごころ『スクリーン』を観に行った。
2016年、愛媛を訪れた彼らの作品を観てから、観劇に通ってる。
そめごころ、及び作・演出の石田くんの作品の印象は、完成していないパズル。
そめごころが作るピースと、それを観るお客さん自身が持つピースが組み合わさって、作られていく作品のように思う。
観る人によって、持ち帰る絵は違うもので、他の人はどんな世界を持ち帰ったのかが気になったりする。




演劇ユニットそめごころ
『スクリーン』
2018/5/22 観劇
冷泉荘ミュージアム(福岡県福岡市)


「僕は、この世界のことをスクリーンと呼ぶことにした」


会場は、L字型の部屋。片側に上映会場と映写室、もう片側は、布団、テレビ、机の簡素な部屋。交わるところに客席がある。
奥にかけられたスクリーンに投影される観劇の諸注意、ルール(許可のない電話、喫煙、睡眠の禁止、この部屋から出ないこと、決して死なないこと。)から始まり、上映時間110分の間に、役者が入れ替わりながらいくつかのシーンが繰り返し繰り返し行われる。
ルール説明。一人暮らし、カメラに向かって生活を伝える。ドキュメンタリー、もしくはフェイクドキュメンタリーの製作。自主映画の上映。映写技師からスクリーンの向こう側からはこちらは見えないことが説明される。複数のどこかの誰かから、誰か個人へのインタビュー。



同じシーンがひたすら繰り返されるうち、虚構に現実が侵食されていく。
映像で語られたルールは、次第に現実で行われるようになり、ビデオカメラに話していた一人実況は、観客に向かって話されて、写していたカメラは定点観測に。
実況そのものも、楽しそうな姿から苦しそうに。

暗転、明転、はスクリーンのルールの睡眠のくだりから、お客さんの眼を閉じる、開ける、セルフにて行われるようになるんだけど、
開けた瞬間に、一人ずつで行われた部屋のシーンが、ある時複数の役者が部屋で蠢いていた時にゾッとした。
そして、暗転・明転も"就寝・起床"に言葉が替わる。就寝、のあとに、劇中で起床が告げられなかったことに気付いた時に、見えない複数のスクリーンのなかに扉の音と共に閉じ込められた感覚がした。

部屋には時折、扉をたたくノックの音が響く。
恐れて開かない、適当な理由をつけて矮小化して気をそらす。
開かないシーンのなかに、恐る恐る扉を開き、そっと外に通される姿も紛れ込む。


インタビューのシーンにて。声も多重、顔も見えない匿名の人たちから行われる質問が繰り返されていく。あるとき、その匿名の声がはっきりと人の声として聞こえた時。彼が弱々しく名乗った名前は"ジョーカー"だった。

これまでに観たものも含めて、石田くんの取り扱う"悪"は、とても弱々しいものに感じる。
愛媛で観た「反復する・・・」の少女のような革命家。
昨年観た「オイル」の富士さん(これは野田秀樹さんの脚本だけど)。
「スクリーン」の、フランスの映画館にて、銃乱射事件に及んだ自称"ジョーカー"。

炭鉱のカナリア。
彼らが起こした残酷な事件は、
人や、時代のうねりに飲み込まれ戻れなくなって、助けを求める悲痛な叫びのよう。
彼らが叫んでいたのはなんだったのだろう。


「とらわれることに気づかないことは幸せかも知れないけど、苦しくても、気づいていたい」
観たあと、話していた友人よりもらった言葉。


僕は、この閉じられたスクリーンからはまだ出られないだろうと思う。もしかしたら、ずっと。
それでも。閉じ込められたあともスクリーンを反復していく中で、作品から見つけた、渡された希望はきっと「想像力」。


「ルールを破ったらどうなりますか」

「・・・ご想像にお任せします」

小さな部屋のスクリーンに自分が描く世界を投影することも、
扉の向こうの世界を想像することも、なんならその外の世界を作っていくことも、きっと許されているんじゃないかと思う
いま、生きているスクリーンを認識するために、
いつかここを出ることになった時のために、
想像することを続けて行ければと思う。

https://somegokoro.wixsite.com/somegokoro/next


そめごころは、次は2018年9月に福岡で公演とのこと。
観たいなぁ。

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